TROUBLEMAKER 17 - 18




17 継生さんの代わりに

 
 家に入るなり、梢は洗面所に駆け込んだ。水道を捻ってバシャバシャと冷水で顔を洗っていると、背後に誰かの気配を感じた。その誰かの正体は見ずともわかる。
 顔を上げて傍らのタオルを取ろうとしたが、手はすかっと空を切った。
「ほれ」
 と、頭の上にふわりと何かが乗る感触がしたかと思うと、果たしてそれは白いタオルで、梢は顔にあてがいながら後ろを振り返った。彼女の思った通り、腕組みをした継生が開いたガラス戸の前に立っていた。
「相模原さんは?」
「帰った」
「……」
「いつでもいいから、返事をくれってさ」
「私の返事は決まってるし」
 そう言うと、継生は少し困ったような顔をした。
「おまえ、ちゃんと考えてるよな?」
「継生ちゃんは嫌なの?私が芸能界に関わることが」
「嫌ってわけじゃないよ。心配してるの、俺は」
「もうそろそろ、私の心配するのやめていいよ」
「それは、梢が決めることじゃない。おまえに何かあったら、おじさんとおばさんに申し訳が立たないだろうが」
「気をつけるわ」
「おまえみたいな子供が気をつけてもねぇ……」
「もう子供じゃないもんー」
「……」
「やな感じ、その笑い方」
 梢は継生に向かってタオルを放り投げたが、すぐに投げ返された。ムッとしつつハンガーにそれを掛けていると、継生が言った。
「じゃあ、やってみれば?」
「えっ……いいの?」
 継生がこれほどすぐに折れるとは思わなかったので、梢は驚いた。
「いいけどさ、仕事をするってことは色々な責任を負うってことだぜ。それ分かってるよな?」
「うん……多分」
「何かを我慢しなきゃいけなくなっても、後で文句は言うなよ」
「言わない」
「それなら、俺が反対する理由はない。どうぞご自由に」
 口の端にどこか皮肉めいた笑みを浮かべると、継生はひらりと背を向けて、おそらく仕事部屋へ戻っていった。
(なによ、本当はいいと思ってないんじゃないの?)
 どうも最後の言葉に意地の悪いものを感じて、梢は面白くなかった。しかし、そうとなれば益々やってやろうじゃねーかとなるのが、彼女の気の強いところであり、また可愛げがないと言われる所以であった。とはいえ、継生の態度は気になる。
「私だって……結構イケてるわよね」
 髪を後ろ手に束ねて、鏡の前で気取った顔を作ってみる。客観的に見てもそこそこ可愛い顔をしていると思うのだが、学校の男子には好かれたためしが全くない。理由は分かっている。性格が理屈っぽくて、おまけに無口でノリが悪いからだ。同世代の男相手に話す内容などないわけで。
「梢ちゃん、なにをやっているんだ?」
 突然、背後から声を掛けられて、梢は肩をびくりと揺らした。見れば鏡に怪訝な顔をした菊名が映っている。梢は慌てて、髪にやった手を下げた。変なところを見られてしまい、非常に恥ずかしい。
「あ、あの、ちょっと……おめかし……」
「なるほど。本当に女の子は華やかでいいなぁ」
 うんうんと、菊名は一人で頷いている。
「まったく、俺も女性に生まれたかったものだ」
「はあ」
 梢は曖昧に返事をした。この菊名という男、モヒカン刈りに太い眉、鍛え上げられた鋼のような体という外見とは裏腹に、少女漫画を描いている。それもコテコテの今時流行らないような大河純愛物を。おまけに女性というものに強烈な憧れがあるらしく、できることならば女性としての生活をしたいという希望を周囲にたびたび語っていた。しかし、だからといっていわゆる「オカマ」というわけではなく、異性としての魅力を感じるのは、一般的な男性と変わらず、やはり女に対してらしい。
「俺もせめて継生さんのような顔だったら、女装も様になるかもしれないが、このツラではな……」
「継生ちゃんの女装ってのも、結構ヘビーだと思いますけど……」
「しかし俺に比べればマシだろう。俺がフリフリのワンピースを着ても美しくない。というよりむしろ汚い」
 とにかく梢にとっては、なかなかに理解に苦しむお兄さんであることは間違いない。  
「ところで、梢ちゃん。君はアイスを食べたいと思わないか?」
 出し抜けに、菊名はそんなことを言った。「アイスクリーム」という一語を聞いたとたん、梢の顔はパッと条件反射のように輝いた。単純な娘である。
「食べたい!」
「じゃあ、こっちにおいで」
 菊名が手招きするのに従って後をついていくと、彼は台所へ入っていく。テーブルの上に銀色の保冷袋が乗っていた。
「このアイスは、さっき、相原の友達が持ってきてくれたらしい」
「あ、そうなんですか。……もしかして、聞きました?私のこと」
「ああ、芸能事務所にスカウトされたんだそうだな。めでたいことだ」
「めでたいと思います?」
「めでたいに決まってるじゃないか」
 菊名は何のためらいもなく言い切ると、袋を開けた。白い冷気が立ち上り、彼は顔をしかめる。
「継生さんたちは、まだ仕事中だから」
 そう言った菊名はスプーンを二本だけ取り出して、あとは冷凍庫にしまった。
「俺もお相伴に預からせてもらっていいかな?」
「それは、もちろん」
「ああ、良かった。ダメと言われたらどうしようかと思った」
「言いませんよ、そんなこと」
 二人はダイニングテーブルに向かい合って座り、横文字の店名が入ったカップのアイスに匙を入れた。うーん冷たい感触のあとに広がるバニラの濃厚な香りが堪らない、などと梢は暢気なことを思ったが、反して菊名は何やら思慮深げに眉間にしわを寄せて、アイスクリームを口に運んでいる。その姿には、まるでどこぞの超A級スナイパーのような雰囲気が漂っていた。
「梢ちゃん」
 と、彼はおもむろに口を開いた。
「社会に出たからって、一人で何でもやろうとしなくてもいいんだからな」
「……でも責任は自分で取らなきゃいけないんでしょ?」
「失敗したときは、だな。だから失敗する前に、誰かの助けなり知恵なりを借りるのが利口な遣り方というものだ」
「……」
「難しく考えることはない。要するに困ったときは、いつでも俺に相談すればいい。俺はいい歳をして未だに腹の足しにもならないような漫画を描いているろくでなしだが、それなりに修羅場は経験してきているぞ」
「はあ、なるほど」
 菊名の過去の武勇伝に関しては、梢も詳しい。しかしそれは敵対勢力がジャパニーズマフィアだったり、はたまた国家機関だったりと、一般人にしては(何故か)通常あり得ないほどスケールが大きい話のため、果たして彼に相談して実用的な答えが得られるかどうかは甚だ疑問と言わざるを得なかった。だが、梢にとっては、こうして菊名が気遣ってくれることが単純に嬉しかった。
「心配してくれて、ありがとうございます」
「なに、継生さんの代わりにな」
 菊名は肩を小さくすくめて、笑った。


18 要するに俺は

「あ、あのう、先生。ベタフラ終わり、ました」
「……」
 おずおずとした様子の淵野辺の手から、継生は無言で原稿を引っ手繰った。びくりと身を強張らせた淵野辺は長身を曲げて机に戻っていく。
「感じ悪ーいの」
「あ、相原さん……」
「何をイライラしてるのかしらないけどさ、僕たちに当たらないでほしいよねぇ」
「聞こえますよぉ〜」
「平気平気。聞こえやしないって!」
 そう言う相原の声は「ひそひそ」とはとても形容できる代物ではなかった。継生の眉間の皺が深くなる。
(どうせ聞こえるように言ってるんだろ、この野郎……)
 と、彼は心中で相原を罵ったが、どうしてそれを口に出さなかったのかといえば、相原の言うことが至極正論だったからなわけで、要するに彼は自分に落ち度があることを自覚していた。
 確かに相原の言うとおり、個人的感情によって他人に当り散らすのはまったくよろしくない。しかし、そんなことは継生だとて百も承知であり、作業を円滑に進めるためには職場の輪が大切だということも、経験上知っているが、それでも抑えられない苛立ちというものが存在するのだから困る。そして、その苛立ちの理由は絶対に知られてはならない。何人たりとも、その理由は知ってはならない。何故なら非常に恥ずかしいから。
 だがしかし、
「どうせさ、梢ちゃんが……ほれ、自分の手の届かないところへ行っちゃいそうなのが、嫌なんだよ」
 苛立ちの理由は、しっかりバレていた。
「相原さん、声が大きいですよ」
「しかしあれだね、まったく!妹ってのはいつかは家を出て行くもんだからなァ。ましてや、梢ちゃんと先生は血の繋がりもないし」
「まずいですって〜!」
「小さい頃は懐いててもさ、僕んとこの妹だって、今じゃあ彼氏に夢中だもの。兄貴ってのはなんというか、悲しい存在というか」
「お前は、何が言いたいんだ」
 とうとう我慢しきれず、継生がなじると、相原は「はい?」と空とぼけた顔で首をかしげた。
「なにかお気に召さないことでも……」
「さっきから、俺に対してあてつけがましく喋ってたじゃねえか」
「そんなことないですよー。ただ、僕……心配なんですよね」
 と、相原は芝居めいた動きで胸に手を当てて、苦悶の表情を浮かべた。
「梢ちゃんが芸能界に入って、木綿のハンカチーフしちゃうんじゃないかと」
「あいつは、そんな風にはならねえよ」
「わかりませんよー。梢ちゃんだって、お堅いように見えて若い女の子ですからね。あっという間に華やかな世界の住人になって、僕らのことなんて忘れちゃうかも!」
「……」
「あら、黙っちゃった」
「うるせーな、さっさと手を動かせよ!」 
 そう怒鳴ると、継生はペン入れに集中するべく、再び原稿に視線を落とした。
 今連載している作品は、とある小学生と世界征服のために未来からやってきた二足歩行ロボットの繰り広げるSF漫画。スラップスティック世紀末ピカレスクロマン大作なるコピーをつけたのは編集者の神奈川で、連載開始時点で、実はもう世紀末はとっくに過ぎていたのだが、彼は気がつかなかったらしい。
(くそ、気が散る……)
 ペン先が妙に紙に引っかかり、継生のイライラはいやが上にも高まる。
 梢の気持ちは分からないでもないし、彼女の自主性を重んじるのならば、賛成してやるのが、よき大人のあり方なのだろうと彼は思い、実際そういった言葉を先ほど梢にかけたのだが、だからと言って気持ちまで割り切れるものではなく、本当のところは「絶対にイヤだ!」というのが彼の本音であった。
 梢の身が心配だからとか、学業が疎かになるんじゃないかとか、進学した方が将来の為になるとか、そんなものは副次的な理由で、要するに俺は……。
 そこまで考えたところで、継生はため息をついた。
「だからって、どうすりゃいいんだよ」
「なにか言いましたぁ?」 
 思わず漏れた独り言を、耳聡い相原はしっかり聞いたらしい。継生は彼を無視した。どうも相原という男は自分と梢の仲をからかいの種にしたがるところがあり、困る。
 ――非常に困っている。
「そういや、あいつはどこ行ったんだ」
「菊名さんなら、休憩中です」
 と、極限まで原稿に顔を近づけてトーンを切っている淵野辺が答えた。
「多分、さっき貰ったアイス食べてると思います」
「あ、そう」
 継生はペンを指の上で回した。付けペンということを忘れていたため、黒いインクが点々と原稿に散った。
(しまった)
 そう思ったが、彼は何食わぬ顔をして、その原稿を相原の机に置いた。そして、おもむろに席から立ち上がる。
「わっ、なんですかこれは!」
「直しといて!」
「はあ!?さいってー!!」
 ぎゃあぎゃあ喚く相原など今更珍しくも何ともない。締め切りまでまだ余裕があるのをいいことに、継生は部屋を出た。

 台所では梢が一人でアイスを食べていた。継生に気がつくと、ちらりと目を上げたが、すぐに伏せた。何の言葉もなく。彼女からは見るからに不機嫌そうなオーラが漂っていて、継生は困惑した。
(な、なんでだ)
 先ほど、梢の希望を承諾してやったというのに、何故これほど機嫌が悪そうなのか。継生には訳が分からなかった。
「菊名は?」
「庭で乾布摩擦やってる」
「……ふーん」
 菊名とは高校からの付き合いだが、未だに何を考えているのか理解できない。
 継生は冷凍庫を開けて、目当てのアイスクリームを取り出した。種類はバニラしかなかった。
「……」
 梢は黙ったままでアイスを口に運んでいる。沈黙の中、彼は銀の匙をアイスに入れた。
「これは……!清冽な冷気がバニラの芳香と共に口中に広がり、さらりと舌の上で溶けていく」
「なに言ってんの?」
「某料理漫画風に言ってみた」
「あ、そう」
「は、はは……(なんだ、その返事はぁ!?)
 全然乗ってこない梢に、継生はいたたまれない気持ちになった。この硬化した空気を少しでも和らげようとしたのに、ひでぇ目にあったゼと、怒り半分情けなさ半分でスプーンを動かしていると、梢が低い声で呟いた。
「継生ちゃん、私のこと怒ってない?」
「なんで」
「だって、さっきムッとした顔してた」
「そんな顔してないって」
 そうは言ったものの、継生はポーカーフェイスが苦手だった。多分、苛立った気持ちが表情に出ていたのだろう。
「本当は私が芸能界に入るの嫌なんじゃないの」
「……いい気してないよ、そりゃ。俺はお前には堅実な人生を送ってほしいと思ってるからな」
「じゃあ、どうしたら許してくれるのよ」
「許すもなにも、自由にやればいいって言っただろ」
「でも、私、継生ちゃんに嫌われたくない」
 その梢の言葉が矢となり、己の心臓を打ち抜いたように継生は感じた。思わず胸に手を当てかけたが、勿論血が出ているはずもない。
「……嫌いになんかなるわけねえだろ、それくらいで」
「本当に、そう?」
「本当に!大体な、自分のやりたいことなんて、誰もが賛成してくれるわけじゃないんだから、そういう奴のことは、たとえ俺でも無視するくらいしちまえよ」
 と、だいぶ自分の本意とは、かけ離れたことを継生が言うと、梢は神妙な表情で頷いた。
「わかった、じゃあ今度から継生ちゃんの言うことは一切聞かないことにするわ」
「いや、それは……」
 あまりきっぱりと宣言されるのも、継生としては辛いものがある。どうしたものかと考え込んでいると、梢は「ふふっ」と堪え切れないように吹き出した。
「な、なんだよ?」
「う・そ!」 
 ニコニコと輝くばかりの笑みを浮かべて、梢は継生の顔を覗き込んでくる。彼は「からかわれた!」と思いながら、咄嗟にその笑顔から目を逸らした。
「ねえ、今の本当に信じちゃった?」
「信じてない!」
 決まりの悪さを隠そうと継生はアイスを口にかき込んだが、次の瞬間、脳天が割れるような痛みが襲ってきて両手で頭を抱える羽目になった。
「だいじょうぶ?」
「あ、ああ」
「ふーん……」
 梢は椅子から立ち上がると、食べ終わったアイスクリームの空容器をゴミ箱に捨てた。
「とにかく、私には継生ちゃんの言うことを無視するなんてできないよ。だから、認めてもらえるように、せいぜい頑張りますわ」
 そう言って梢は出て行き、残された継生は落ち着かない気持ちでなんとなく頬杖をついた。
 嘘だと笑った彼女の笑顔が、もう一度見たかった。



 

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