TROUBLEMAKER 19 - 20




19 それは突然に


 階段を上りながら、梢はきょろきょろと周りを見ている。ビルのあまりのボロさに驚いているのだろうか。
「驚いたかな。まさかこんなに汚い建物だとは思わなかったんじゃない?エレベーターもないしさ」
 相模原は少しの恥ずかしさと共にそう言った。梢は慌てたようにかぶりを振った。
「いえ、そんなことは」
「別にいいんだよ。僕ら社員だって実際辟易してるんだから」
「はあ〜なるほど」
 と、梢は呟いた。
(なるほどってことは、やっぱり汚いと思っていたのか……)
 だいぶ歳の離れた女子高生の言葉に、相模原は己の心がしゅんと萎むのを感じた。俺って、なんでこんな所で働いてるんだろうとの思いが、毎度のことながら心を過ぎったが、そんなことを考えている場合ではない。
 ――俺には、彼女をスターにするという使命があるのだ。
 相模原は事務所の扉の前に立つと、梢を振り返った。長い髪を後ろで一つにしばっているだけなのに、彼女は可憐だった。なんとなく彼は照れた。
「ここが、事務所です」
「はい」
「これから、うちの社長と会ってもらうわけだけど……」
『キャーッ!』
 相模原の言葉を遮って、突然扉の向こうから絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
「な、なんですか?」
「……片倉さん!?」
 不安な顔をする梢を残して、相模原は扉を勢い良く開けた。早足で中を進んでいくと、事務所の奥にある衝立の陰から片倉が出てきた。凍りついたような真っ青な顔をしている。
「どうしたんだ」
「さ、相模原さん」
「あっ……!」
 衝立の向こうを覗いた相模原は短く悲鳴を上げた。
 片倉の震える指の先で、背広姿の壮年の男性がうつぶせに倒れている。
「社長!!」


20 意味ありげな言葉

「実は僕、今月付けで退職することになりまして」
 と、神奈川が切り出したのは、居間にていつものように完成原稿の枚数をチェックした後だった。あんまり自然な口調で言うので、継生は「は?」と思わず聞き返した。
 そんな彼に対して、神奈川は穏やかに微笑んだ。
「辞めるんです、会社」
「マジで?」
「マジです」
「どうして」
「一身上の都合です。ちょっと身内に色々ありまして」
「ふーん……そう」
 継生は納得のいかない気持ちを抱きつつ、相槌を打った。神奈川とは長い付き合いで、編集者としては仕事もできるし、アイディアも豊富だしと内心頼りにしていたので、本当に辞めるというのなら、残念な話だった。
 しかし、本人が決めたことなら口出しすることではない。
「辞めるにしても、次の職場は決まってんの?」
「はい、一応」
「なんの仕事?」
「それはまあ、いいじゃないですか」
 神奈川は言葉を濁した。あまり追求されたくないようだ。継生はそんな彼を訝しく思った。
「別に教えてくれてもいいだろ」
「まだこれからどうなるか分からないんで。落ち着いたら、教えますよ」
 喋りすぎたと思ったのか、神奈川はあたふたとした様子で立ち上がると、「また改めて挨拶に来ます」と言って、会社へ戻っていった。
(なんなんだ?怪しい……)
 継生は人のプライベートを無闇に詮索することはしないが、かといって興味がないわけではない。今の神奈川の態度は怪しすぎた。
(実は、まだ新しい仕事が決まってないのか)
 だから、あんな曖昧な返事になったのだろうか。
 考えをめぐらせていると、梢が部屋に入ってきた。
「あれ、神奈川さんは?」
「帰ったよ」
「なんだ、この本返そうと思ったのに」
 梢の手には、先日神奈川が持ってきた薄い新書があった。
「また来るって言ってたぜ。あ、そうそう神奈川のやつ、会社辞めるらしいぞ」
「え!なんで!!」
「さあ……詳しい理由は教えてくれなかった」
「そうなんだ……辞めちゃうんだ、神奈川さん……」
 沈んだ声で呟いた梢は、ソファーにどさりと腰を下ろした。少し俯き加減にした顔を、憂鬱そうな影が過ぎる。
「随分とがっかりするんだな、お前」
「だって会社辞めたら、もう私たちと会わなくなっちゃうんでしょ?」
「そりゃ、そうだろうな」 
「寂しいなあ〜。私、神奈川さんのこと、お兄さんみたいに思ってたのに」
 その梢の発言に、継生の顔は強張った。俺の立場は一体……。
「お兄さんなら、ここにいるだろ」  
「えー、継生ちゃん?」
「なんだ、その『え〜』ってのは!?」
「私が求めてるのは、知識があって優しくて真面目なお兄さんだもんー」
「俺じゃん!」
「どこが!?」
 間髪を入れずに聞き返す梢を前にして、継生は何だか悲しくなってきた。どうして、こんな扱いを受けなければならないのか。
「知識と優しさは百歩譲って認めてもいいけど、真面目ではないわよね」
「真面目だろーが!俺ほど真面目な奴はなかなかいないぞ」
「本当に真面目な人は、自分で自分のことを真面目なんて言わないと思うけど」
「……ところで、相模原から連絡はあったのか?」
「いきなり話を逸らしたわね」
「何か?」
「まあ、いいけど……昨日電話があって、社長の息子さんが会社を継ぐんだって」
 先日、梢が初めて横浜企画を訪ねたその日に、そこの社長は亡くなった。心筋梗塞だったらしい。
「なんだ、そうなのか。てっきり俺は潰れるのかと思ったぜ」
 継生は内心舌打ちした。社長が亡くなったと聞いたときには、やはり梢は芸能人なんてやる運命じゃなかったのだと、不謹慎にも安堵したりもしたのである。零細企業と聞いていたので、後を継ぐ人間がいるとは思わなかったのだ。
「息子って幾つ?」
「年齢は知らないけど、若いって。相模原さんも病院で初めて会ったらしいから」
「ってことは、そいつは今まで会社の経営に関わってなかったってことか?」
「そういうことかな?」
「大丈夫なのかよ、そんな奴に任せて」
 継生は不安になってきた。梢が所属する限り、横浜企画と自分は最早無関係ではないのだから。しかし、彼とは反対に梢は落ち着いている。
「知らないわよ、そんな大丈夫かどうかなんて」
「自分のことだろ、もっと関心を持てよ」
「なるようにしか、ならないんじゃない」
 ふわーと大あくびをすると、彼女は肘掛に頭を乗せてソファーに横になった。薄手のスカートがめくれて、白い足が腿の辺りまで露になっている。継生は目のやり場に困った。
「だ、だらしないぞ」
「何が?」
「その……」
 と、指で示すと、服の乱れに気が付いたらしい梢は身を起こして、すごい勢いでスカートの裾を直した。
「見ないでよ、やらしいわねっ!!」
「なんで、俺がやらしいってことになんだよ!どっちかっていうと、見せてるお前の方がやらしいんじゃないか!?」
「やだー!!どうして私が継生ちゃんに見せなきゃいけないの!!」
「そんな、理由なんて知らないけど」 
「また二人でいちゃついてるー」
 と、不意に顔を覗かせたのは相原で、彼は今から帰宅するらしく、先日椎茸を詰めていたリュックを背負っていた。
「まだいたのかよ、お前は」
「そう簡単に梢ちゃんと二人きりにはさせませんよ」
「ばっ……!なにを言ってるんだ!!」
 あたふたと喚く継生を、梢は白けた目で見た。
「なんで動揺してるのよ」
「そーそー、ただの冗談なんですから」
「そういう冗談はやめろ!!」
「ところで梢ちゃんさぁ、本当に芸能人になっちゃう気?」
 はははは……と、相原は継生を無視して梢に顔を向けた。彼女は少し困ったように笑った。
「あのー……皆さん心配してくれますけど、スカウトされたからって、そんなすぐデビューとかないですよね?」
「でも、あの横浜企画って貧乏事務所の割には業界で顔が広いらしいからさ、大手のレコード会社とかテレビ局にも、コネが結構あるんだってよ」
「……」
 相原の言葉に梢は沈黙した。
「いきなり歌手デビューしちゃって、TKプロデュースみたいな!」
「いつの時代の話だよ」
「それとも、グラビアアイドルとか〜?水着姿で砂浜に寝転んだりして」
「うわ、絶対やだ」
「誰もお前の水着なんて見たかねーよ。こんな起伏に乏しい体……」
 継生がそこまで言ったところで、梢は目を剥いた。
「なにそれ!!」 
「すげーセクハラ発言ですよ、先生。今のは」
 どこか楽しげに相原は目をきょろきょろさせた。継生も「まずった」と思ったが口は止まらず、
「事実を言ったまでだ」
「わ、私だって胸くらいあるわよ」
「そりゃあるだろ。つか、人間なら誰でもあるわ」
「なによ……バカッ!!」
 怒鳴られてしまった。立ち上がろうとする梢の手を、継生は咄嗟に捕まえようとしたが、邪険に振り払われた。ので、もう片方の手を掴んだ。
「悪かったよ」
 素直に頭を下げたが、梢は俯き口を尖らせている。
「すぐ謝るのって、誠意が感じられない」
「でも謝らなかったら、もっと怒るくせに」
「言い方の問題なの」
「じゃあ、どういう言い方がいいんだよ」
「そんなの自分で考えてよ」
「分からないから、聞いてるんだろうが」
 二人の会話は平行線を辿るばかりで、終わる気配が見えない。
「まるで痴話喧嘩だな」
 呆れたように呟く相原の声が聞こえて、継生は慌てて梢の手を離した。またぞろシスコンだのなんのと、からかわれるに決まっているからだ。梢の顔を窺うと、彼女は唇を真一文字に結んで、やけに思いつめたような顔をしている。
(な、なんだ、その表情は……)
 最近、梢の考えていることが分からなくて、気分が落ち着かない。
 そんな継生の心中など知ることもない相原は、梢の顔をじっと見つめた。
「どっちにしてもさ、売れっ子になっても僕らのこと忘れないでよね」
「まだ何も始まってないのに、大げさ過ぎですよ」
 困惑気味に言う梢に、相原は妙に真剣な顔をして言った。
「先生と梢ちゃんが喧嘩しても、僕らは梢ちゃんの味方だからね」  
「……」
 何も言わないでいる梢の横から、継生は口を挟んだ。
「どういう意味だよ、そりゃ」
「そのままの意味ですよ」
 どこか意味深な笑みを、相原は浮かべた。




 

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