TROUBLEMAKER 37 - 38




37 手紙

  継生は全く油断していた。
 庭に葉が落ち始めた秋晴れの日、郵便受けを覗くと、公共料金の明細書と一緒に、一通の白い封筒が届いていた。表には「成瀬継生殿」と筆で宛名が書いてあり、その流麗な筆致を目にした途端、彼は顔を曇らせた。
 裏を見なくても、差出人が誰かはすぐに分かったが、念のため返してみると、やはりそこには予想した住所と名前が記してあった。
(今更、なんだ)
 群馬県某郡某町。とりあえず都市部ではないと分かるその地名が、継生の生まれた場所だった。山深い地で、娯楽に乏しい田舎町である。彼は中学校を卒業して以来、数える程しか帰っていなかった。
 帰郷しなかったのは、華やかな都会に身も心も染まってしまったから、などという手垢のついた理由からではなくて、単に実家の居心地が悪かったからだ。
 成瀬の家は、家族団欒という言葉とは縁遠い家庭で、思想家を自認していた父は、どこで遊んでいるのか滅多に家に帰ってこなかった。母親は美しかったが、どこか浮世離れしていて、父以外の男と何度か家出をした。我が子のことなど、家の置物くらいにしか思っていないような女だった。
 二歳上の姉がいて、彼女と継生は同居していた母方の祖父に育てられたようなものだった。しかし、その祖父は継生がこちらに出てきてから間もなく亡くなり、家は益々遠い存在になった。実家で暮らしている姉とも、もう何年も顔を合わせていない。
 このような自分の境遇を人に話すと、さも気の毒そうな顔をされるが、当人からしてみれば、さほど不幸な過去でもなく、物心のついた頃から、両親はただ自分を生んだ人間という認識しかなかったので、愛情を期待することもなかった。
 それが不幸ということなのかもしれないが。
「……」
 継生は手に持った封筒を、眺めた。
 差出人は成瀬響子――母だった。
 筆で書かれた宛先は、まるで印刷されたように端正で、何の感情の動きも見せていなかった。昔から何を考えて生きているのか分からない母に似合いの字ではある。
 家出から帰ってきたかと思えば、我が子に話しかけることもせず、日中は部屋に籠もり、夜になると、何処かへ出かけて行った。
(あの人は、たぶん俺たちが目障りだったんだろう)
 と、継生は考えていた。だから、彼を東京の親戚である、この家へ押し付けたのだ。学力を伸ばすため、などというもっともらしい理由をつけて。姉だって、そのとき既に全寮制の女子高に入れられていた。
 ほとんど他人のような存在なのに、どうして今更、手紙など寄越したのだろう。
 気が進まなかったが、継生は封を切った。


38 けじめをつける 

 梢は薄暗い路地を足早に歩いていた。
 放課後、教室に居残って、友人たちと喋っていたら、帰るのが遅くなった。
 秋の日は釣瓶落としと言うが、まったく近頃は日が落ちるのが早く、先ほどまで橙色に染まっていたアスファルトが、もう灰黒色に変わっていた。
 足が急くのは、ただ闇が怖いからだった。路地の脇に立ち並ぶ家の窓からは、暖かな明かりが漏れているのに、なぜか外は恐ろしく静かで、水で溶いた墨のような暗がりから、今にも何か出てくるんじゃないかと、彼女は恐れを感じていた。
 もちろん、その何かが出てくるはずもなく、梢の足は無事に家へと帰り着いたのだが、門の前まで来たところで、「え?」と思わずため息が零れた。
 街灯が点いていない。平常なら、神経質な継生が必ず点けているはずなのに。
 門を入って、庭の方を見てみたが、障子も閉まっていなければ、雨戸も閉まっておらず、窓ガラスの向こうは、やはり明かりが点いていなかった。
「なによこれは……まったく無用心なんだから」
 ぶつぶつと梢はぼやいた。
 おそらく継生は外出したのだろうが、それならそれで戸締りはきちんとしてほしい。
 鍵を開けて中へ入った梢は、玄関の電灯を点け、いつものように居間へと向かった。入り口のすぐ傍にあるスイッチを押しながら、部屋の中へ足を踏み出した。
 ――誰かがいる。
「わああっ!」
 梢は、まるで演劇部の学生のような、驚きの声を上げた。
 ソファーに横たわっていた人物が、弾かれたように起き上がった。   
「……なんだよ、もう」
 寝ぼけ眼をした継生だった。
「な、な、なによぉ。いるなら、電気くらい点けてよー」
「あれ、もう夜か」
「やーだ、ぼけちゃって」
 梢が聞こえよがしに言っても、継生は反論しなかった。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、テーブルの上に乗っていた一枚の紙を手に取った。見たところ手紙のようだった。
「ラブレター?」
 ふざけてそう聞くと、彼は真顔でかぶりを振った。冗談に乗る気は無いようだった。
「母親からの手紙だ」
「へえ……珍しいね」
 梢も真顔になった。
 継生の母親とは両親の葬式で、一度だけ会ったことがあった。
 もっとも、梢は悲しみの真っ只中にいたので、彼女の顔はあまりはっきりとは覚えていなかった。
「で、どんな内容だったの?」
「親父が倒れたんだと」
「えっ! 大変だ」
「いや、ただの過労で、今はもう持ち直したらしい」
「そうなんだ、良かったね」
「別に良かぁねえよ」
 継生は吐き捨てるように言った。彼が家族との不和をちらつかせるとき、梢はいつも、何と言ったらいいのか分からなくなる。
「ちょっと入院したくらいで見舞いに来いなんて、馬鹿らしい」
「それ、行くべきだと思う」
 梢が正論を口にすると、継生は疎ましそうな顔をした。
「そりゃ普通の父親なら、行くべきだろうな。でも、あいつは俺たちに一度だって、親らしいことしたことないぜ」
 これまでに聞いた話によれば、彼の父は殆ど収入が無く、おまけに家にも寄り付かなかったらしい。
「爺さんが入院したっていうんなら、俺だって飛んで帰るさ。なんで、あの駄目親父のために帰らなけりゃならないんだ?」
 今は亡き祖父を引き合いに出して、継生は父親を更に罵るつもりのようだったが、梢はそれ以上聞きたくはなかった。
「もういいよ」
 と遮ると、継生は少しの間を置いて、悪かったと言った。その申し訳なさそうな声を聞いた梢は、罪悪感を覚えた。
 彼の愚痴を聞いてあげられたらいいと思うが、実の親がいるだけ、いいではないかという、妬みにも似た気持ちが、いつも邪魔をする。もちろん、いない方がよっぽどマシな親が世の中に存在することは、知っているのだが。
「継生ちゃんが、お見舞いにいかないなら、私が行こうかな」
「……冗談だよな」
 継生は、笑いかけて途中でやめたような、不自然な表情をした。
「えっ、冗談じゃないよ。本気だよ」
「バカ、お前が行く必要なんてない!」
「そんなことないよ。だって、私、こんなに長い間、継生ちゃんの世話になってるのに、小父さんと小母さんに、ちゃんと挨拶したことがないんだもん。こんなの、絶対おかしいって」
「挨拶なんて、いらねえんだよ」
「私の気持ちの問題なの」
 いつかは会いにいかなければならないと、前々から思っていた。 
「継生ちゃんが駄目だって言っても、私は一人で行くからね」
 強い口調で言い切った梢を、継生は暗い表情で見やった。
「一人で行くなんて、正気とは思えない」
「じゃあ、一緒に行こ!」
「あのなあ、俺は、お前をあいつらに会わせたくないんだよ」
 二親のことを、あいつら呼ばわりである。
「どんな酷いことを言われるか、わかったもんじゃない」
「それでも、私は行かないと……」
 梢だって正直なところ、彼の親に会いたくなどない。自分の存在が疎まれているだろうことは、想像に難くないのだから。しかし、けじめはつけなければならないと、彼女は思っていた。
「継生ちゃんの話を聞いてると、会うのが怖いけど」
「怖くなんかねぇよ。ただ冷たいだけで」
「冷たいのは怖いでしょう」
 と、梢が言うと、継生は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに、そうだよなと呟いた。
「それにしたって、帰るための休みを確保するのが大変だ」
「いつもより一日早く原稿を上げればいいんじゃない?」
「簡単に言うな」
「私も手伝ってあげるよ」
 梢は本気で言ったのに、継生は天井を見上げて、ただ、はいはいと生返事をしただけだった。




 

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