TROUBLEMAKER 29 - 30




29 男は狼なんだから

「あーあ、疲れた」
 小さい声で呟くと、梢はパイプ椅子にどさりと座った。目の前の白いスタジオを、ぼんやりと眺めた。
 先ほどまで、CDの販促用ポスターの撮影をしていた。
 梢のデビューシングル「スターライトに恋して」が発売されたのは一月程も前だが、最近、急に売れ出して、ヒットの兆しが見えてきている。豪徳寺のベタな歌詞と、梅が丘のこれまたベタなマイナー調の曲が、日本人の心の琴線に触れたのか、詳しい理由はよく分からないが、とにかく、「スターライトに恋して」は、じわじわと音楽チャートを上り始めていた。
 今頃ポスターの撮影なんて、仕事が遅いにも程があるが、誰も売れるなんて思っていなかったので、仕方がない。
(まだ帰れないのかなぁ)
 スタジオの隅の暗がりで、相模原はレコード会社の人間と話をしている。窮屈なパンプスを脱いで、足をぶらぶらさせていると、「疲れた?」と、不意に背後から声を掛けられた。振り返ると、サングラスを掛けた男が笑みを浮かべて立っている。
「……はぁ、ちょっと疲れました」
 誰だろうと思いつつ、梢は愛想笑いを浮かべた。男は空いているパイプ椅子をわざわざ梢の隣まで持ってきて、腰を下ろした。 
「和泉ちゃんも段々、表情作るの上手くなってきたね」
 男が言った。ちなみに梢の芸名は「桜ヶ丘和泉」という名前に決まった。どういう由来でそうなったのかは不明だが、おそらく神奈川が彼自身の信念によって(つまり適当に)命名したのであろう。
(あ、この人、さっきのカメラマンの人か)
 梢はようやく男の正体に思い当たった。撮影の間、レンズを挟んで対峙していた相手だったが、その時と違ってサングラスなんて掛けているから、分からなかった。
「君は肌が綺麗だから、撮ってて楽しいよ」
 そんなことを言いながら、男は梢の座っている椅子の背凭れに手を回してきた。薬のような不自然な香水の臭いが鼻をついた。馴れ馴れしいな、と梢は思ったが、もちろん口には出せず、少し肩を引いた。
(相模原さんは……まだか)
 首を後ろに捻って、少し離れた所に立つ相模原を見やったが、彼は全く気づいてくれない。
 男はまだ喋っている。
「和泉ちゃん、これから仕事ある?」
「いえ、ありませんけど」
「それならさ、どこか飲みに行かない?」
「私、未成年なので……」
「あ、お酒飲んだことないんだ。じゃあ、俺が酒の飲み方教えてあげるからさ」
(面倒くせーなぁ) 
 梢は段々、男に返事をするのが億劫になってきた。愛想笑いを浮かべるのにも疲れた。
 梢の反応が鈍いことに気づいたのか、どこかへつらうように男は笑った。
「ねぇ、和泉ちゃん聞いてる?」
 男の手が梢の肩を掴もうとしたとき、突然二人の上に影が差した。
「梢さん、お待たせ」
 いつの間に来たのか、相模原が目の前に立っていた。梢は弾かれたように椅子から立ち上がると、彼に身を寄せた。男は鼻白んだような顔をして、今まで浮かべていた笑みを引っ込めた。
「今日はありがとうございました。また機会がありましたら、よろしくお願いします」 
 相模原は梢の肩を軽く押して、一緒に頭を下げるように促した。
「お疲れ!」
 男は、そう吐き捨てると、荒々しく椅子から立ち上がり、スタジオを出て行った。
「あの人、怒っちゃったみたいですけど」
「そうみたいだね」
 不安になった梢が相模原を見上げると、彼はぎこちなく笑った。
「とにかく、帰ろうか」

 スタジオの地下に備えられた駐車場は日が差さないせいか、空気がひんやりとしていて、梢は羽織っているジャンパーの上から腕をさすった。
「さっき、あの男と何の話してたの?」
 ポケットから車のキーを出しながら、相模原が訊いてきた。
「飲みに行こうって誘われたんです」
 梢がそう答えると、相模原は「あの野郎」と毒づいた。彼の手の中のキーが金属音を立てる。
「ちゃんと断っただろうね」
「未成年ですって言ったら、俺が酒を教えてやるとか何とか言われて……」
 相模原に説明しながら、梢はなんとも言えない不快な気分になってきた。自分は口説かれたのかと、今頃になって気が付いた。しかし、あんな軽そうな男に口説かれても全く嬉しくない。
「業界の男には気を付けないと駄目だよ」
 まるで子供に言い聞かせるように、相模原は言う。
「あいつら、女なら誰でもなびくと思ってるんだ」
「はーい」
 と、梢が少し間延びした返事をすると、相模原は「真面目に聞いてる?」と顔をしかめた。

「やっぱり、俺がもっと目を光らせてなきゃいけないんだよな」
 車に乗り込み、外の道路へ出てからも、相模原はまだ軟派カメラマンのことが気に入らないようで、ぶつぶつ言っている。
 後部座席の梢は窓に頭を寄り掛からせて、運転席の相模原を見た。運転している彼を、この角度から眺めるのは嫌いじゃない。
「もういいじゃないですか、そのことは」
「良くないよ。男はみんな狼なんだから、梢さんも気を許したらあかんで」
 彼は幼い頃関西に住んでいたらしく、時たま、前触れ無く訛りが出る。
「はいはい」
「やっぱり真面目に聞いてないな」
「聞いてますよ。ああいうチャラい男にはついて行くなってことでしょ」
 相模原がどうやら説教を打ちたいらしいことに気づいて、梢は少し警戒した。
「心配しなくても、そんなことしません」
「皆、最初はそう言うけど……」
 と、ぼやく相模原の声には、どこか苦い響きがあった。
「女の子は気が変わりやすいからなぁ」
 ため息なんてついている。梢は黙って、窓の外に目を向けた。急に家が恋しくなり、継生の顔が見たくなった。言うと調子に乗るから言わないが、梢にとって、彼はやはり心のよすがだった。
 一ヶ月程前に、ちょっとした言葉の取り違えで、継生との間に何となく気まずいムードが漂ったことなど、梢はもうすっかり頭の隅に追いやっていた。
 しかし、継生の方はどうだろう。


30 自覚と混乱
 
 諸々の事情により、今日は菊名と淵野辺がいない。継生が一人真面目に仕事をしているのを尻目に、相原は音楽雑誌に目を落としていた。なんと横柄なアシスタントだろうか。
「PVと雑誌の中だけで会えるミステリアスな新星、若者の間で人気上昇中……ですって」
 相原は記事を読み上げた。
「ファンタジックな衣装と、ポーカーフェイスで歌うその姿は、まるで体温の無いロボットのようだ」
「それは褒めてんのか?」
 継生は眉根を寄せた。
 梢が、その体温の無いロボットのような歌手としてデビューして一ヶ月。とは言え、今のところ梢の生活に殆ど変わりは無い。先だって継生に披露した見事な化粧のお陰で、正体がばれずに済んでいたからだった。
 相原は感心したように唸った。
「だけど、まるで別人ですね。こうなると」
「見せて」
 継生は手を伸ばして、相原から雑誌を取り上げた。記事に添えられた写真の梢は、気取ったような冷たい横顔を、こちらに向けている。別人のようだと言っても、これは案外見知った表情だということに気が付いて、継生はほっとしたような、面白くないような、複雑な気分になった。
「……」
「なーに凝視してるんですか」
 相原がニヤニヤと笑っていることに気付いた継生は、慌ててページをめくった。
(なんで俺が焦らなきゃいけないんだよ)
 別に梢の写真をまじまじと見たって問題は無いはずだ! そう思ったものの、本当にそのまま凝視し続けたら、また相原に何か言われることは明白だったので、止めた。そうだ、後ろめたいことなど何もない……はずだ。
「ただいま」
 という声と供に、ガラリと網戸が開く音がした。ポスターの撮影に行っていた梢が帰ってきたらしい。網戸の開く音が聞こえたということは、やはり玄関を使わないつもりなのだ。一体どういったこだわりがあって縁側から入るのか、継生には理解できない。
「あ、真面目に仕事してない」
 梢がひょいと顔を覗かせた。
 彼女が自分の手元を見ているとわかって、継生は雑誌を相原の机に戻した。
「ちゃんと真面目に仕事してますから、どうぞご心配なさらずに」
「本当かなぁ」
 梢が首を傾げると、肩の辺りで髪がさらさらと揺れる。それがやけに眩しく思えて、継生は顔を下に向けた。無理やりにでも目を逸らさないと、いつまでも彼女のことを見つめてしまいそうだった。
(どうしちまったんだよ、俺は……)
 一ヶ月より少し前、己の不用意な発言のせいで、梢と気まずくなったことがあり、それ以来、継生の中の何かがおかしくなってしまった。としか言いようが無く、つまり彼はどうやら梢に対して尋常じゃない想いを抱いてしまったようなのである。
 思わず頭を抱えそうになる両手を、継生は辛うじて机の上で組んだ。
「継生ちゃん、今日の夕飯、何か食べたいものある?」
 いつもは継生の意見など無視しているのに、今日に限って、梢はそんなことを聞いてきた。
(おいおいおいおい! なんでそんな優しい言葉をかけるんだ?)
 嬉しいのと疑わしいのとで、継生が困惑している間に、梢は部屋の中へと入ってきた。何気ない素振りで継生の背後に回ると、そこで立ち止まった。
 これは危ない、と思った時にはもう遅かった。梢の両手が後ろから伸びてきて、彼の首に触れた。次の瞬間、ぞわっという悪寒が背筋を駆け抜け、
「ぎぇ!」
 継生は肩を竦ませて、悲鳴を上げた。
「やめろ!」
「まだ、首が弱いんだぁ」
 今にも「うひひひ」と笑い出しそうに楽しげな声が背後から聞こえてくる。
 必死で梢の手を首から剥がそうとするが、こんなときの彼女の力は何故か妙に強く、中々離すことができなかった。
「や、やめてくれ。頼むから」
「……やめないっ」
 梢が横から顔を覗き込んで来た。何がそんなに可笑しいのか、邪気の無い笑顔を浮かべていたが、ふと真顔になった。それと同時に首に掛かっていた指から力が抜けたので、継生はその機を逃さず、肩から梢を引き剥がした。胸を押さえると、思わずため息が出た。
「あーもう、死ぬかと思ったぜ」
「死ぬわけないじゃん」
 先ほどまでのはしゃいだ様子はどこへ行ったのか、梢は冷めた声で言った。
「そういう弱点は鍛えておきなさいよ」
「こんなところ、どうやって鍛えるんだよ」
 継生は自分の首を労わるように擦った。毎回思うことだが、自分で触るときはどうして何も感じないのだろう。
「梢ちゃん、この雑誌に梢ちゃんのことが載ってるよ」  
 相原が声を掛けると、梢は彼の方へ行ってしまった。まだ夕飯の希望を答えていないのに。
「うわー、ロボットみたいだって。ひどい!」
「でも、この写真綺麗に撮れてるよ」
「そ、そうですか?」
 相原のお世辞に、梢は満更でもなさそうにはにかんでいる。面白くねぇ、と継生は思った。
(って、何が面白くないって言うんだよ)
 こんな風に自問するとき、大抵の人は己の心の内に既に答えを得ているものである。ただ気づかぬ振りをしているだけで。
 要するに、彼は認めたくなかったのだ。
 梢が自分以外の男に笑顔を向けることが嫌だなんて!
 おいおい冗談はよしてくれよ、と自分で自分に肩を竦めたくなるが、そんな風に足掻いても意味が無いことは分かっている。一度自覚してしまった気持ちはごまかせない。つまり俺は梢のことを……。
(ちょっと待て、まだそんな風に決め付けるのは早いぞ)
 継生は小さく頭を振った。良く考えてみれば、だいぶ前から梢が他の男と仲良くするのは嫌だったのである。昨日、今日に始まった問題じゃない。ということは、特に悩むようなことではないのでは……。
(いやいや、違うだろ。むしろ、俺は昔から梢に対して、そういうよこしまな気持ちを抱いていたっつーことなんじゃねぇか? いや、よこしまなんかじゃない! 俺の気持ちは非常に真剣なものだ。つうか、そんなことより、俺って絶対おかしいよな……なんでこんな一回りも違うような奴を……しかも梢だぜ、親戚の小さな梢ちゃんだぜ! 実はロリコンだったのか、俺は。だが待てよ。もう梢だって十七歳なんだから、別におかしいことはない。今なら俺と結構お似合いなんじゃないか? ……だ、駄目だ駄目だ! 俺がこんなことを考えているなんてことが梢にばれたら、身の破滅だ! どうせあいつは俺のことを兄貴としか思っていないはずだからな。気持ち悪がって、もう二度と口を利いてもらえなくなる可能性が大だ。そんなことになったら、俺は……俺は……。うっ、考えただけで心臓に負担が)
 継生は脳裏にて、いつ終わるとも知れない自問自答を繰り広げていたが、ふと我に返った。
「なにをさっきから一人でぶつぶつ言ってるんですか?」
 相原が、まるで不審者にでも向けるような目で継生のことを見ていた。
「えっ、ぶつぶつ言ってた?」
 継生は咄嗟に右手で口を覆った。今更、覆ってどうなるわけでもないのだが。
(まさか、俺、もしかして今までずっと声に出してたのか?)
 そうだとしたら、身の破滅は予想外に早く来たことになる。
 継生は恐る恐る梢の顔を窺った。
(げっ!)
 彼は戦慄した。案の定、梢は腕組みをして、険しい表情を浮かべていた。眉根は寄せられ、唇は真一文字に引き結ばれている。整った顔立ちをしているので、そういう顔をすると、なんだか怖い。
 継生は言い訳をすることを瞬時に決めた。立ち上がり、梢に正面から向き合う。
「か、勘違いしないでくれ。今のは別に深い意味があって言った言葉じゃなくて」
「……何が?」
と、怪訝そうな顔をする梢の目が妙に冷たく思えて、早々に挫けそうになるが、継生は何とか言葉を継いだ。
「だから、俺がお前のことをさ……その……あの……」
「なんすか、その恋する乙女みたいな声は。気持ち悪ぃなあ」
 急に相原が割り込んできた。
「先生、なんか勝手に焦ってるみたいですけど、さっきの独り言は、ぶつぶつ言ってるのは聞こえても、内容までは分からなかったですよ」
「……本当か!」
 継生は顔を輝かせた。まるで頭上を覆っていた黒雲が晴れたような気分になり、彼は心底から安堵した。ああ良かった! これで自分はまだ梢の兄でいられる。
「なにを喜んでるのか、わけわかんないわ」
 梢は呆れたように言うと、部屋を出て行ってしまった。結局夕食の希望は聞いてくれないらしい。ほぼ無意識のうちに、継生が彼女の背中をぼんやりと見送っていると、相原が話しかけてきた。
「心配しなくても大丈夫ですよ。梢ちゃんはぜーんぜん気づいてないですから」
「……なにが?」
 と聞き返しながら、継生は背筋に冷たいものを感じた。相原はにやにやと笑っている。
「先生、梢ちゃんに惚れてるんでしょう」
「……」
「梢ちゃんのこと愛しちゃってるんじゃないですか?」
「……は?」
 ようよう搾り出した声は動揺をごまかし切れず、掠れていた。
「とぼけても無駄ですよ。いやまあ、とぼけてもいいですけどね。僕は前から気付いてましたから、先生の気持ちには」
「……」
 継生は黙り込んでしまった。いや、正確に言えば反論の言葉が出てこなかった。このとき、自分がどうしようもなく正直者だということを彼は深く認識した。
 嘘をつかねばならないときに限って、それが出てこないなんて、なんと言う間抜けだ。
「しっかし、先生も難儀な人ですな」
 と、相原は全く他人事のような口調で言った。継生は彼を横目で見たが、すぐに目を逸らした。
「ほっとけよ」
 否定する気はもう無かった。というより気力が無かった。
「お前には関係ないだろ」
「関係ないってことないでしょー。僕だって、ほとんど一つ屋根の下で暮らしてるようなものだし、先生と梢ちゃんの関係の如何によって、僕たちの生活も変わってくるかもしれな」
「おい、こら」
 継生は相原の言葉を遮った。
「お前、梢に余計なこと言うつもりじゃねえだろうな」
 睨みつけると、相原は肩を竦めた。
「言いませんよ、まさか」
「なら、いいけどよ」
 ――いやいやいや、いいわけねぇ!!
 今になって継生は焦った。底の見えない真っ暗な穴に落ちて行くような感覚を覚えた。
 自分はとんでもない秘密を人に明かしてしまったのだ――。
「ああっ」
 継生は思わず顔を両手で覆った。急に苦悩の度合いが増したようである。
「俺はどうすりゃいいんだ」
「んな大げさな」
 失笑混じりに言う相原に、継生は目を剥いた。
「大げさってことねえだろ! 梢にばれたらどうするんだ!!」
「案外自信ないんだなぁ」
 相原は半ば感嘆したように言った。
「ぼかぁ、てっきり先生は、女の人に対して押すタイプかと思ってましたよ」
「梢に対して、そんなことは無理だ……」
「ふーん。相手は初心な女子高生なのにねぇ。いくらでも丸め込めそうですけどねー」
「そ、そんな丸め込むなんて、ふしだらなことできるかっ!」
「ふしだら……」
 いつも動揺の「ど」の字も見せない相原がぎょっとしたような顔をしたのを見て、継生は今の発言を撤回したくなったが、そんなことができるはずもなかった。
「先生って、実は純情だったんですね。知りませんでしたよ」
 相原は引きつった表情でそう言ったが、すぐに「ありえねぇ」と低い声で一言付け足した。継生は憮然とした。
「悪いか、俺が純情だと」
「つっかからないでくださいよ。ていうか、本当にこのまま梢ちゃんに何も言わないつもりなんですか」
「言えるわけないだろうが。俺がこんな気持ちでいるなんて知られたら……きっと嫌われる!」
「は、はァ。なるほど」
「あいつは俺のことなんか、親戚の、ちょっとおせっかいなお兄さんとしか思ってないんだ。俺に懐いてくれるのも、俺が超安心で無害な身内だからだ。それが、もし万が一……」
「梢ちゃんのことを、ああして、こうして、あまつさえ、一晩中あんなことやこんなことして可愛がりたい!っていう欲望がばれたら、確かに大変ですよね」
「お、お前はなんてことを言うんだよ」
 なんとデリカシーのない奴だ、と継生は信じられない思いで相原を見返したが、彼の言うことが否定できない事実なのも確かではあった。
「男なら普通はそう思うでしょう」
 まさに相原の言う通りだったのだが、継生は抗うように言った。
「俺は別にそんなことは望んじゃいない」
「ふーん。あくまで、いいお兄さんでいたいってことですか?」
気持ちを隠して兄の立場を守るか、それとも全部明かして玉砕するかという、二つに一つの選択しか無いと、継生は思っていた。
「そういうことだな」 
「それで最後は、他の男に持って行かれる梢ちゃんを黙って見送るのかー」
「……」
 相原は腕組みをして、生真面目な顔をした。
「将来、梢ちゃんの子供に、昔お世話になった親戚の人なのよ、とか紹介されちゃうんだなぁ、きっと」
「……」
「超寛大な男ですね、先生。僕、尊敬しちゃいますよ」
「……」
 継生は相原の言うことを黙って聞いていたが、内心ではすんげぇ動揺していた。 
(もし、そんなことになったら……俺は死ぬかもしれん。ストレスで)
 冗談でなく、彼はそう思った。梢が他の男と結ばれるかもしれないという可能性を想像するだけで、頭を掻き毟り、地面をのた打ち回りたくなる。この狂おしい衝動は一体どこからやってくるのか、そして一体いつから自分の中に巣食っていたのか。
 ――恋で死ぬというのは、こういうことか。
 学生の頃、そんな内容の詩を読んだことがあった。まさか詩に心を重ねる日が来るとは、当時は思いもしなかったが。
 まるで実る見込みの無さそうな己の恋路を思って、継生は日本海溝よりも深いため息をついた。
(梢……)
 と、特に意味も無く胸の内で名前を呟いてしまうあたり、かなり重症である。
「胸に手を当てて悩む人なんて、初めて見たなあ」
 相原が感心して見ていたことに、継生は全く気が付いていなかった。




 

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