TROUBLEMAKER 27 - 28 27 三人寄れば…… 梅ヶ丘を訪ねた翌日、梢から電話がかかってきた。 『相模原さん、今日は事務所にいます?』 梢の声は今にも消え入りそうな程、か細くて、相模原は少し身構えた。 「いますよ」 『今から、そっちに行ってもいいですか』 「えっ……」 なんだか恋人が(もしいたら)言いそうなことを梢が言うので、相模原の胸は小さく高鳴った。久しく忘れていた感触である。 「あ、いや、いいけど……どうかしたの?」 『……相談したいことがあるんです』 「わかった。じゃあ待ってるよ。いつでもいいから」 『今、行きます』 それじゃあ、と電話は切れた。 相模原はしばし、持ったままの携帯電話を眺めた。若い女の子から頼りにされるのは悪くない気分だった。というより、非常に嬉しい。 「でもなぁ」 彼はひとりごちた。電話の向こうの梢の弱々しい声が気になった。相談したいことがあるというからには、何か問題が起きたに違いない。だとすれば嬉しがっている場合ではなかった。 相模原は顎に手を当てた。 (まさか、今更やめたいとか言うんじゃないだろうな) 彼女なら言いそうなことではある。元々乗り気じゃなかった子だ。いつやめたくなってもおかしくはない。 だが、それは困る。レールは既に敷かれているのだ。途中でほったらかしにすることはできない。廃線にすることはできない! などと妙な例えを思いつき、相模原は「ふっふっ」と一人で小さく笑った。 一時間程の後、コンコンと事務所のドアがノックされた。 「失礼します」 と梢が入ってきた。彼女の姿を見た途端、相模原は己の懸念が当たったことを知った。 ドアを開けた梢の表情は「この世の終わりだ」とでも言いたげに曇っており、深い悩みを抱えていることは間違いなかった。 早く話を聞きたいという気持ちを抑えて、相模原はできるだけ穏やかに声をかけた。 「やあ、外は暑かったんじゃない」 「はい」 「何か飲む?麦茶でいいかな」 「はい」 口を開くのも苦痛なのか、梢はそれだけ言って黙っている。気取られないように息をつくと、相模原は奥の給湯スペースへ行った。冷蔵庫を開けて、麦茶のボトルを取り出す。いつもこういったことをしてくれる片倉は今日は休みなので。 麦茶を入れたグラスを持って戻ると、梢は窓際に立って外を眺めていた。白い麻のカーテンを透かした光が、彼女の肌に淡い影を作っている。 相模原は束の間その場に棒立ちになった。 何を考えているのかは分からないが、梢の佇まいには雰囲気があった。そこにいるだけで絵になる、という表現があるが、それは今の彼女のことを言うのだろうと思った。 梢は確かに綺麗な子ではあるが、それほど飛び抜けた美形というわけではない。それでも、そういった雰囲気を発することができるというのが、芸能人としては大切な資質なのだった。 「そんなところに立ってないで、座りなよ」 と相模原が言うと、梢は振り返った。彼女はまだ浮かない顔をしていた。ゆるゆると周囲を見回し、 「今日は神奈川さんはいないんですか?」 「ちょっと外に出てる」 今、事務所にいるのは相模原と梢だけだった。 相模原は自分のデスク、梢はその隣のデスクの椅子にそれぞれ座った。なぜ応接スペースのソファーに座らなかったのかというと、前社長が亡くなった場所ということに相模原が未だにこだわっているからだった。 まるで職員室の教師と生徒のような体勢だな、と思いつつ相模原は口を開いた。 「それで、相談したいことってなにかな」 「学校のことなんです」 「あぁ」 相模原は相槌を打った。よくある問題ではある。 「うちの高校ってその……芸能活動にすごい厳しいらしくて」 「まあ、大抵の学校は良く思わないものだよ」 「バレたら自主退学させられるかもしれないんです」 「それって、過去にそういう例があったってこと?」 相模原が尋ねると、梢は頷き、かつて彼女の高校に在学した歌手にまつわる話を語った。 「下北沢アツシか」 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの歌謡界のプリンス「アツシ様」の姿を相模原は脳裏に描いた。確かに彼ほどの売れっ子になれば、学業に支障を来たすこともあるだろう。 「私、退学だけは絶対にできません」 梢は思いつめた表情で言った。 「だから」 と言いかけて、彼女は言葉を止めた。その先を言うのがためらわれたようだった。 おそらくデビューの話を白紙に戻してほしいのだろうと、相模原は察したが、それはできない相談だった。 「学校のことは、とりあえず心配しなくてもいいと思うよ」 CDを出したとしても売れる保障なんてない。むしろ売れる確率の方が低い。今から心配するほどのことでもない、と相模原が言おうとしたとき、出し抜けに事務所のドアが開いた。 「あれ、梢さんじゃないですか」 入ってきたのは神奈川だった。キラキラと光る汗を拭う姿も爽やかに、彼は梢に笑いかけた。 「遊びに来たの?」 「ち、違います」 そう反論する梢の声音が真剣なことに気が付いたのか、神奈川は近くのデスクの椅子を二人の傍まで引っ張ってきて、腰を下ろした。 「なにかありましたか」 「……」 梢は沈鬱な表情で黙っている。神奈川は相模原を見た。 「相模原くん、どうしたんです?」 「いえ、その……」 相模原が言いよどんでいると、神奈川の目がきらりと光った。かと思うと、彼は両の手で梢と相模原それぞれの手を掴んだ。 「梢さん、相模原くん。僕たち三人の間に隠し事は無しにしましょう!」 神奈川の熱い言葉に、相模原と梢は思わず顔を強張らせた。 「社長……」 「僕たちはこれから、芸能界という荒波を渡って行かなければなりません」 「はあ……確かに」 「というわけで、梢さん」 神奈川は梢の顔を真正面から見据えた。梢は怯えたように体を仰け反らせた。 「言いたいことがあるなら、どうぞなんなりと僕に話してください。遠慮はいりませんよ。僕はこう見えても、ちょっとやそっとのことでは驚いたりしません。ええしませんとも」 「わ……わかりました」 神奈川の妙な勢いに負けたらしく、梢は件の悩みを打ち明けた。 聞き終えた神奈川は「なるほど」とさほど深刻な様子も見せずに言った。 「梢さんが心配するのは当然です。確かに学校生活に支障が出てはいけない」 「しかし、まだそこまで売れると決まったわけじゃありませんから」 と相模原が口を出すと、神奈川はキッと睨んできた。 「そんな弱腰で、君は梢さんのマネージメントをする気ですか」 「いや、僕は……!」 相模原は一瞬カッと頭に血がのぼるのを感じた。 (最初に彼女を見つけたのは俺じゃないか!) なのにどうして、こんな侮られたようなことを言われなくてはならないのか。 一目見たときから女優に向いていると思った。梢の醸す独特の存在感は得難いものだ。どんなイメージで、どんな役柄で、と売り出し方法を考えていたのに、そこにいきなり横槍を入れてきたのが神奈川で、まるで梢を横取りされたようにも、相模原には思えていた。 「社長、一言、言わせてもらっても……」 「失礼、今のは言い過ぎでした」 あっさりと神奈川は相模原に頭を下げた。相模原はぽかんとして、彼を見返した。 「梢さんをスカウトしたのは君なんだから、君が一番彼女のことを考えているはずですよね。僕のような新参者が言うべきことではなかった」 「い、いえ、そんな……」 相模原はしどろもどろになった。あんまりストレートに謝られたので、怒りは何処かへ行ってしまった。 (変わった人だ……) これはひょっとすると大物かもしれない。相模原は神奈川に対する認識を少し改めた。 神奈川は腕組みをして、首を傾げている。 「さて、どうしたものか。学校にバレないようにするには……」 「変装するとか?」 と梢が言った。相模原は思わず「変装!?」と聞き返した。お世辞にも現実的な案とは言えない。 「ちょっとそれはどうかな?」 「でも、よくあるじゃないですかー。女の子が男のふりをしてアイドルになるとか」 「漫画じゃないんだから」 相模原は梢の意見をいなした。 「大体、梢さんは男装できるような体型じゃないと思うよ」 「うーん、そうですか?」 「背があんまり高くないし、肩も張ってないし」 梢は女性らしいほっそりとした外見をしている。男装なんてしても、とうてい男には見えないだろう。 「そっかぁ」 納得したように梢が言うと、神奈川は突然椅子から立ち上がった。 「男装……それだ!」 「え?」 と声を上げたのは相模原で、またぞろ神奈川が妙なことを考え出したかと警戒した。 「いや、だから社長、男装は無理ですよ……」 「違いますよ!男装じゃなくて、女装すればいいんです!!」 「はぁ?」 「あの、私はもう既に女装してます」 困惑したように梢が言った。 「というか、元から女なんですけど……」 「だからそこを、もっと女っぽくするんですよ」 「もっと女っぽく?」 相模原は水商売の女性を想像して、軽く頭を振った。 「ちょっと待っててください」 そう言うと、神奈川は早足で自分のデスクへと歩いていった。小さなファイルを取り出して手早く捲っている。あるページで手を止めると、どこかへ電話をかけ始めた。 相模原と梢は、そんな彼をぼんやりと眺めた。 「どこにかけてるのかなぁ」 「さあ……」 しばらくして電話は終わった。 「……それでは、お待ちしてますので。失礼いたします」 受話器を置いた神奈川は、何が嬉しいのかニコニコと笑みを浮かべている。とはいえ、いつでも笑っているような気もするのだが。 彼は梢を見た。 「梢さん、今日はこれから予定ないですよね」 「……ないですけど」 予定がない、と決め付けられたのが不満なのか、梢は憮然とした顔になった。 「誰が来られるんですか?」 相模原が尋ねると、神奈川の笑みは更に深まった。 「それは、あとのお楽しみということで」 「お楽しみ?」 相模原と梢は顔を見合わせた。 28 抱きしめたい 「あ、降ってきた」 外でぽつぽつという雨の音がしたかと思うと、相原は待ちかねていたかのように椅子から立ち上がった。 「そろそろじゃないかと思ったんだよねー」 障子を開けて縁側に出た彼は、窓を引いた。上空で響くどろどろという音と共に、湿った夏の空気が部屋に入ってくる。 「なにやってるんだよ!」 原稿から顔を上げた継生は目を剥いた。 「窓を開けるんじゃない!!」 「いいじゃないですか。少しは空気の入れ替えしないと」 「冷房入れてるんだぞ」 「僕、冷房って苦手なんですよね。頭が痛くなっちゃう」 ふうっと白々しいため息を相原は吐いた。 「それなら、おまえだけ外で休んでろよ」 と継生は言ったのだが、それと同時にピッという音がして、エアコンが止まった。 菊名がリモコンを手にしていた。 「なんで止めるんだ!」 リモコンを奪おうとする継生から身をかわしながら、菊名は真顔で言い返した。 「冷房の効きすぎは良くない。それに少しは地球温暖化のことも考えないといかん」 「俺が暑さに弱いって知ってるだろ。涼しくないと集中できないんだよ」 「心頭滅却すれば火もまた涼し、と言うじゃないか」 菊名の言葉に継生は口元を歪ませた。本気で言っているらしいのが、また性質が悪い。 「あーそうあーそう、おっしゃる通りですね。でも俺にとっては温暖化よりも明日の締め切りの方が重大な問題なんだ!だってそうだろう、一回原稿を落とせば確実に信用は失われるんだ。次から仕事が来なくなるかもしれない。そうすりゃ、おまえらだってみんな路頭に迷うんだぞ!」 と熱弁したものの、誰も聞いちゃいなかった。相原は未だに雨空を見上げているし、菊名はタンクトップを脱いで、逞しい体の汗を拭くのに忙しそうだ。唯一、継生の意見をまともに聞いてくれそうな淵野辺は今は仮眠を取っていた。 (アシスタントから、これほど蔑ろにされている漫画家がいるだろうか) 継生はそう思わずにはいられなかった。 「分かったよ、もういいよ」 なんとも情けない呟きを口にすると、継生は諦めて再びペンを手に取った。 それにしても暑い。あまりの暑さに目が霞んでくるような気さえしてくる。汗がこめかみを流れていく。途端に喉の渇きを覚えた。だが、水を取りに行く暇も今は惜しい。 (いや、待てよ。夏場はこまめに水を取らないと熱中症になりかねない。それに脳溢血を起こす可能性も高まる……下手すりゃ心筋梗塞だって) 一度考え出したら、なかなかおさまらない。継生は結局、席を立った。 まったく落ち着かないゼ、とぶつぶつ呟きながら台所へ向かい、グラスに水をくんだ。戻ってくる途中、玄関の前を通りがかると、丁度良いタイミングと言うべきか、呼び鈴が鳴った。見れば、戸に嵌め込まれた磨りガラスの向こうにぼんやりと人影が浮かび上がっている。 「ごめんください」 とガラス越しに人影が言った。雨音を伴奏に歌っているような、高い女性の声だった。 (セールスか?) そう思いながら、継生はグラスを持ったままで玄関を開けた。 開けた先に立っていたのは、知らない少女だった。ゆるくウェーブのかかった明るい茶色の髪が肩の下まで広がり、陶器のように白い肌を飾っている。ばっさばっさと風でも起こしそうな程に睫毛が長く、着ている深緑色の服は些か少女趣味に過ぎるような、レースが幾重にも重なったビロード仕立てのワンピース。その姿は、まるで生きたフランス人形といった風情だった。 美少女は美少女だ、が。継生は思わず眉をひそめてしまった。 「……どちらさま?」 と聞いたものの、どこかで会った覚えがあるような気もする。 少女は継生の問いに答えず「ふふっ」と微笑むと、やおら自然な動作で身を屈め、戸に掛けた継生の腕の下を潜り抜けた。なんの遠慮もない様子で玄関に入っていく。 「ち、ちょっと……!」 一瞬呆気に取られた継生が我に返り引きとめようとしたときには、彼女は既にエナメルの靴を脱いで上がり框へと踏み出していた。ハンドバッグをぶんぶんと振り回して、まるで我が物顔で廊下を進んでいく。 「待て!!」 慌てて追いかけた継生が少女の肩に手をかけると、彼女はくるりと振り返り、一緒についてきたハンドバッグが継生の顔を直撃した。留め金が鼻に当たり、彼は咄嗟に手で押さえた。 「あ、あんたなぁ……」 鼻に当てた手を見てみるが、幸い血はついていなかった。 「どういうつもりなんだ!?」 「ごめんなさい」 と謝りつつ、彼女はどこか楽しげな表情を浮かべている。継生は怒るのも忘れて目を一つ瞬かせた。 自分は目の前の少女のことを、やはり知っている。 (誰だ?) 継生が困惑していると、少女は口元に手を当てて「すごいわね」と呟いた。そして継生のことを斜に見上げて、少し呆れたような顔をした。 「まだわからないかなぁ」 「は……?」 「私よ、わ・た・し!」 「……お、おまえ……!」 その瞬間、継生は彼女の正体を悟った。と同時に、手の中のグラスが重力に従い滑り落ちた。ガシャンという、グラスが床に当たったのと、水がこぼれたのがいっしょくたになった音を耳にしながら、継生は呆然と目の前の少女――梢のことを見つめた。 「ど、どうしたんだよ、それは……その、格好は」 「結構似合うでしょ」 そう言って小首を傾げる梢は、これまで継生が知っていた彼女とは、似ても似つかなかった。よく見れば確かに顔の作りは同じだが、入念に施された化粧のせいで、まるきり違う顔のようだ。 「いやまあ、似合うっちゃ、似合うけど……」 他人から話しかけられているようで、彼は顔の強張りが中々取れなかった。 「全然、知らない人になっちゃってる」 「それなら成功なの」 梢はスカートの裾を少し持ち上げて、ひらめかせた。 「ばれないための化粧と衣装だから」 「え?」 「うちの高校、芸能活動に対して厳しいらしいから、ばれるとまずいのよね」 「まずいって、どういう風に」 「退学処分とかにされるかもしれないってことですよ」 「なんだってぇ!?」 「だから、ばれないように……さ」 梢の話によると、今日事務所に神奈川の知り合いのスタイリストがやって来て、この見事な化粧をしてくれたのだそうだ。 「でも、継生ちゃんがこんなに騙されてくれたんだから、きっと大丈夫ね」 そう言って梢は笑ったが、継生には一つ気になって仕方がないことがあった。それは、 「おまえ、その髪は染めたのか?」 「ああ、これ?」 梢は茶色の髪をひとすじ指に巻きつけた。彼女の髪は元々茶色がかってはいたが、今の色は純日本人にしては明るすぎた。 「おまけにパーマまで……」 「これ、かつらなの」 「あ……そうなんだ」 継生は胸を撫で下ろした。 「こんな頭じゃ学校行けないわよー」 と笑いながら、梢は頭をバリバリとかいた。ちょっと品がない。 「にしても、最近のかつらってよく出来てるんだな」 普通に見ている分には、自前の髪との区別はほとんどつかない。 継生は感心するばかりだったが、梢は少しげんなりしたような顔をした。 「でも、これって蒸れるのよね。もう取っちゃおかな」 頭に手をやった彼女はヘアピンを幾本か取ると、ばさりとかつらを外した。梢の本来の髪が下から現れる。 「あっ!?」 継生は驚愕に目を見開いた。梢の髪が……短くなってる! 背中の中程まであったはずの髪は、顎の辺りで綺麗に切り揃えられていた。 「なんだ、そのおかっぱ頭は……」 「ボブって言ってよ。スタイリストさんに切ってもらったんだ」 「どうして」 「かつらを被るのに長いと邪魔なのよ。でも、暑いからちょうど良かったかも」 こんなに短くしたことって今までなかったし、と梢はその髪型を気に入っているらしかったが、継生はそうじゃなかった。 「俺は長い方が良かった」 「あ……そう?」 「なんで俺に何も言わないで切るわけ?」 傍で誰かが聞いていたら、おまえは彼氏か、という指摘が入りそうな継生の言葉だったが、生憎その誰かは、今ここにいなかった。 梢は初め戸惑ったような顔をしていたが、それは段々とムッとした表情に変わっていった。 「悪かったわね、似合わない髪形にして……」 「別に似合わないなんて言ってないだろ」 「言ってるのと同じよ!」 ふん!と梢は顔を背けた。彼女の耳から頬にかけてが、赤く染まっていることに気が付いて、継生は急に自分が酷い男に思えた。先ほどの言動は、だいぶ大人げなかった。 「似合ってるよ、その髪型も」 「でも長い方が好きなんでしょ」 「いや、あれは……」 言い訳しようとした継生を、梢はキッと睨んだ。 「どうせ私はおかっぱ娘よ。笑いたければ笑うがいいわっ!」 梢の口から出てきたのが、随分と芝居めいた言い草だったので、継生は本当に笑ってしまった。 「なんだよ、そりゃ」 「笑わないでよ!」 「笑いたければ笑うがいいわって言ったじゃん」 「だからって本当に笑うなってーのよ!」 梢はそう言うが、継生の笑みは中々収まらなかった。 真剣な顔で一生懸命に言い募る彼女は、あどけない。どれほど成長していても、どれほど綺麗に化粧をしていても、こんなときに見せる表情は幼い頃と同じだった。 ふと、継生は真顔に戻って呟いた。 「おまえって、可愛いよな」 「……はあ?」 梢は不気味なものでも見るような目で、継生を見上げたが、彼はそんなこと気にしちゃいなかった。 「……」 「……」 しばらく二人は無言でお互いの顔を見詰め合い、やがて継生が口を開いた。 「梢」 「……なによ」 「おまえのこと、抱いてもいいか?」 継生がそう口にしたとたん、梢はもの凄い勢いで彼から離れた。まるで縫いとめられたように壁に背を張り付けている。 「な、なに、それ」 なぜ梢が怯えたような顔をしているのか、継生には分からなかった。 「だからさ、ちょっとでいいから抱かせてくれない?」 「……」 梢は一瞬泣きそうな顔をしたかと思うと、くるりと背を向けて、一目散に廊下を駆けて行った。そこでようやく継生は己の発言のまずさに気が付いた。 「ち、違うって!!」 慌てて梢を追いかけた。部屋に飛び込んだ彼女がドアを閉める寸前、継生は手を伸ばしてドアノブを掴んだ。が、ドアの隙間は容易には広がらない。梢も必死でノブを握っていたからだ。 「やめてよ!!来ないでよ!!!」 「待ってくれ、誤解だ!!」 「うるさーい、変態!!」 変態という言葉に密かにショックを受けつつも、継生は必死で弁解した。 「さっきのは、そういう変な意味じゃなくて、単にその……なんて言ったらいいのかな、おまえのことを、抱っこしたかったんだよ!」 「げっ!!」 と、梢は心底嫌そうに顔を歪めた。無理もなかったが。 「十分変態だ!!」 「なっ、なんで変態になるんだよ!親愛の情ってやつだろ!」 「バカッ!!」 梢が叫んだ。ありったけの嫌悪を凝縮したような声だった。継生が怯んだ隙を逃さず、彼女はドアを一気に閉めた。 部屋際の攻防は終わった。これ以上食い下がっても、今のところ梢の機嫌が直ることはないだろう。 (ちょっと耳年増なんじゃないのか) 自分の言い方が悪かったとはいえ、あれはないよ、と継生は思った。 こちらとしては、そういう意図はまったく無かったので(当然だ!)ああいった反応をされると戸惑ってしまう。 玄関まで戻ると、先ほど落としたグラスがそのままになっていた。水が床に零れている。 ため息をつきつつ後片付けをして、さあ仕事に戻ろうとしたとき、廊下の角から相原が現れた。彼は継生の顔を見ると、きりっとした表情になり、やおら口を開いた。 「おまえのこと、抱いてもいいか?」 にやりと笑う。 「でしたっけ?」 「……」 聞かれていたのか、と継生は恥ずかしさにのた打ち回りたくなった。が、もちろんそんなことはできるはずもなく、ただ黙り込むしかなかった。 いつもならば、ここで相原の更なる冷やかしが始まるはずなのだが、今日は違っていて、彼はそれだけで継生の横を通り過ぎた。どうやらトイレへ行くらしい。 腑に落ちない気分になる継生の耳に、 「それにしても、梢ちゃんも本気で怒ることないよなぁ」 という彼の呟きが聞こえた。 ← → novel |