TROUBLEMAKER 25 - 26 25 知らない自分 梅ヶ丘に連れられて梢が入った部屋には、スタジオと称しているだけあって、様々な音楽機材が所狭しと置いてあった。 「それじゃカワイコちゃん、こちらに来てくれる?」 梅ヶ丘は黒いアップライトピアノの椅子に腰掛け、梢を手招きした。 (なにをされるんだろう。歌うのかしら……) 緊張しつつ梢が梅ヶ丘の傍に立つと、彼(彼女と言うべきか)は手慰みのように鍵盤を叩きながら、梢を見上げた。 「なんでもいいから歌ってみてちょうだい」 「な、なんでも……ですか?」 「そう、あなたの好きな歌でいいわ」 「はあ。え〜と……」 梢は焦った。なんでもいいと言われても困ってしまう。カラオケなど行かないし、特に音楽が好きというわけでもない。 ここは流行の曲を歌った方がいいのか、それとも過去の名曲にした方がいいのか、などと様々な考えが頭を過ぎる間にも、梅ヶ丘はピアノを鳴らしながら、梢が歌い始めるのを待っている。 (ああどうしようまずいわこのままじゃでもなにをうたったらいいのわかんない) 悩んだ末に梢が歌った曲は、こんな曲だった。 「さいたさいた〜チューリップの花が〜」 自分でも何故この歌を選んだのか分からず、幼稚園のお遊戯かよ、と落ち込みながらも、梢は一番を歌いきった。 「……」 梅ヶ丘は睫毛ビシバシの目を丸くして、梢を見ている。呆気に取られているようだ。彼女が何も言わないので、梢はどうしたらいいのか分からず、おずおずと口を開いた。 「あの、二番も歌った方がいいでしょうか」 「いいえ、結構よ」 と梢を制した梅ヶ丘だったが、次の瞬間、腹を両手で押さえたかと思うと、出し抜けに体を折り曲げて笑い出した。それは大爆笑と言ってもいいような笑い方で、完全に彼女の中の男が丸出しになっていた。 梢は梅ヶ丘の反応を前にして、穴があったら入りたいと思った。 「すみません、子供みたいな歌を歌ってしまって」 「い、いいのよ、別に……!くっ……ぶふっ、あははははは!!」 尚も笑い続ける梅ヶ丘が、梢は段々腹立たしく思えてきた。 (そんなに笑わなくてもいいのに) なんでもいいと言ったじゃないか!と梢が憮然としていると、今まで無言で控えていたトメが口を開いた。 「先生、あんまり笑っちゃ梢さんが可哀想だんべ」 「ごめんなさい、でも、可笑しくて」 息も絶え絶えの梅ヶ丘は、ようやく笑うのをやめた。目尻に涙が浮かんでいる。 「あなたって、面白いわ〜。素朴なところがいいわね」 梅ヶ丘の言葉に、梢は情けない気持ちになった。 「……ありがとうございます」 そう言いながらも、ぶすっとした顔が直らないままでいると、梅ヶ丘はやおら立ち上がり、梢をガバッと真正面から抱きすくめた。 「かわいいっ!!」 「な、な……」 梢は目を白黒させながらも、梅ヶ丘を突っぱねようとしたが、そう思った矢先に彼女の方が先に体を離したので、梢の手は無様に空を切った。 「あなたの声質はわかったわ、今日はもう帰っていいわよ」 「え?」 と、梢は首を傾げた。 「もっと、ちゃんと歌わなくてもいいんですか?」 「あーいいのよ、いいのよ。声が良けりゃ問題ないのよ、歌手なんて。よっぽどの音痴じゃない限りね。あとはトレーナーについて、少し訓練が必要かもしれないけど。私があなたに合った曲を作るから、心配はいらないわ」 「はい……ありがとうございます」 梢は何となく納得がいかなかったが、なにせ相手は業界の大物だ。失礼します、と頭を一つ下げると、トメと共に素直に部屋を出た。 応接間へと戻る途中、トメが話しかけてきた。 「お嬢ちゃんは、きっと成功なさるだよ」 「……そうですかねぇ?」 梢は懐疑的だった。これから作られるだろう曲の甘ったるい歌詞や、梅ヶ丘の胡散臭い風体を思うと、とても「成功」の二文字とは縁遠いような気がした。 しかし、トメは自信満々といった顔をして、彼女よりも少し上背のある梢の顔を見上げた。 「あんたの目にゃあ、若いのに似合わず憂いがあるだ!」 「憂い?まさか!」 梢は疑わしげにトメを見やった。そんなものが自分にあるとは思えなかった。しかし、トメは真面目な顔をして、梢を見つめ返してくる。 「いーんや、婆ちゃんにはわかる。あんた、きっと苦労してなさる。そんなところが顔に出てて、不思議と魅力的なんだぁ」 「別に苦労なんて……」 梢はぼそぼそと呟いた。自分は両親を亡くしてはいるものの、その後は継生がついていてくれたから、何不自由なく、ここまで生きてこられた。苦労なんて言ったらバチが当たる。 悩みはあるが、顔には出さないように努めてきたし、いつかは解決できる類のものだと考えていた。今のところは。 そんな私に憂いなんてものが本当にあるのかしらん、と梢が考え込んでいると、トメはおろおろと両手を振った。 「ああ、わりがったわりがった!オレが変なこと言っだがら、悩んじまっだなァ」 トメは梢が深刻に悩んでいると勘違いしたようだった。梢は首を小さく横に振った。 「悩んでたわけじゃ、ないんです」 「はぁ、そうけ?ならいがったけんど……」 そう言いながらも、納得のいかないような顔をしたトメが応接間の扉を開けると、ハッと弾かれたようにソファーから立ち上がった男がいる。不安げな顔をした相模原だった。 「どうでした、梢さん」 「いや、どうでしたと言われても」 「歌唱力をチェックされたんじゃないんですか?」 「う〜ん、チェック……されたのかなあ?」 「は、はっきりしないなぁ」 焦れたように言う相模原に、梢は笑いかけた。 「でも、たぶん大丈夫だと思いますよ。よっぽどの音痴じゃない限り問題ないって言ってたし」 「本当に?」 相模原が疑念の声を上げると、今までソファーに座っていた神奈川も立ち上がり、口を出した。 「おそらく梢さんの言う通りでしょう。叔父はインスピレーションを大切にしますから。現時点での歌唱力はそれほど気にしてないと思いますよ」 「それって、勘頼みってことでは……」 相模原は、まだ心配しているようだ。そんな彼に、梢と神奈川は「だいじょーぶだいじょーぶ」と言い聞かせた。すると段々と洗脳されてきたのか、相模原の表情も和らいできた。 「そ、そうですね。確かに梅ヶ丘涼ともなれば、勘も鋭いのかもしれない」 「そうそう!」 「なんか上手く行くような気がしてきたよ」 「でしょー(相模原さんって単純かも……)」 梢と相模原が意味も無く笑い合っている横で、神奈川は手首の腕時計に目をやった。 「それでは、僕たちはそろそろお暇しましょうか」 「もう少し、ゆっくりなさらんしょ」 トメが引き止めたが、神奈川は梢へ目をやって言った。 「帰りが遅くなると、梢さんの家に心配をかけますからね」 どこか面白がっているような神奈川の視線に、梢の表情は自然と苦いものになった。 「それはもう……心配すると思います」 すごい剣幕で。 梢は、なじる継生の声を容易に想像することができた。 トメに別れを告げた三人は車に乗り込むと、来たのと同じ道を使って帰ることにした。 「来る途中ですごい山道があったでしょう。僕、あのカーブを運転したかったんですよね」 と、弾んだ声でハンドルを握っているのは神奈川で、「社長に運転させるなんて恐れ多い」と言う相模原を説得して、運転席を半ば無理やり乗っ取ったのだった。 「あんな道が好きなんですか」 相模原が呆れたように言うのに対して、神奈川は「好きですねぇ」と笑っている。 二人の会話と、ラジオから流れてくる高校野球の中継を聞き流しながら、梢は窓の外を見つめていた。 このままだと本当に歌手としてデビューすることになりそうだ、とぼんやり思った。今になって不安が募ってくるのを感じる。 (継生ちゃんの言うとおり、やめときゃよかったかも) なんて後悔が心を過ぎるも、今更やめることはできない。もう既に多くの大人たちを巻き込んでいる。この道は後戻りのできない道なのだった。 それにしても、と梢は少し冷めた頭で考えた。 (みんな、私のことを勘違いしてるような気がする……) 相模原は「君には何か光るものがある」と言った。梅ヶ丘は「素朴」と言った。トメは「憂いがある」とさえ。 梢が思うに、自身には光るものも、素朴さも、憂いもなかった。あったとしても、それは束の間心を通り過ぎるだけで、あっという間に消え去ってしまう。 彼女が知る「町田梢」という人間は特に取り立てて個性もない、ただの凡庸な一市民だった。 「梢さん」 不意に神奈川が名前を呼んだ。梢は窓から目を離して、後姿を向ける運転席の彼を見た。 「はい?」 梢からは神奈川の横顔が見える。彼は穏やかな表情をしていた。 「不安なのは僕も同じです。でも、一緒にやれるだけやってみましょうよ」 胸中を読んだようなその言葉に、梢の体はわずかに強張った。 「はあ……」 動揺を隠そうと、梢は曖昧な返事をした。と同時に、この人本当に不安がってるのか、と訝しく思った。梢の知る神奈川はいつでも飄々としていて、およそ不安とは無縁の人物のように見えていたからだ。 「社長も不安になることがあるんですね……」 梢と同じことを考えていたのか、相模原はぼそりと呟いた。 26 上手くいかない夜 その夜、自室で洗い髪をタオルで拭きながら、梢は友人の矢部睦美に電話をかけた。 睦美と梢が電話で話すことは少ない。一旦電話で話し始めると嫌でも長話になり、最後には疲労困憊してしまうので、お互いに敬遠しているのだった。そういったわけで、彼女とのやりとりはもっぱらメールに頼っているのだが、今夜ばかりは直接話したかった。 これから話そうとする内容のことを思うと、ボタンを押すのがためらわれたが、いつまでも黙っておけるわけもない。 携帯電話が傍にあったのか、すぐに睦美は出た。 『おう、梢?』 「こんばんは。ごめんね、遅くに」 『いいよ、別に。どうしたん』 「あのさー、矢部にちょっと話しておきたいことがあって」 『なになに?なによー、えっ?もしかしてなんか悪い話?』 電話口でも睦美は変わらず落ち着きがない。 「悪い話ってわけじゃない……んだけど、驚かないで聞いてほしいんだわ」 『んなこと言われてもなぁ、人間驚くときは驚くもんだからねー』 「じゃあ驚いてもいいけど、今から話すこと信じてよ。本当の話なんだから」 『わ……わかった』 「あのねぇ……私……芸能事務所にスカウトされちゃった」 『えぇ?』 と回線の向こうで、睦美は大きな声を上げた。 『マジで!?』 「マジで。信じられないかもしれないけどさ」 『いや、まーねぇ。でも梢は美人だからさ、信じられないってことはないけど』 「ていうかさ、歌手デビューするかもしれないんだよ」 『ウソだろー!?』 「本当だよ……。今日だって、梅ヶ丘涼っていう作曲家の家に連れてかれたんだ」 『えっ!?つか、やばい、信じらんねぇ』 混乱しているのか、睦美はしばしの間「えー」やら「いやウソ」やら「ホントかいな」などと、ぶつぶつ言っていたが、やがて、 『まぁでもさ、あんたがこんな変な嘘つくわけないもんね。てことは、本当なんだよね』 「本当!」 『気ぃ悪くしないでほしいんだけど、その事務所って信用できるところなの?』 「信用できると思う……たぶんね……そこの社長さんが継生ちゃんの知り合いだから。偶然だけど」 『それならいいけどー。デビューするとしたら、学校はどうすんの?』 「……」 睦美の言葉を聞いて、梢は絶句した。今現在夏休みということもあって、学校のことをすっかり失念していたからだ。 「やばい、学校のこととか完全に忘れてたわ」 『それってまずくね?つーかさぁ、演歌歌手で下北沢アツシって人がいるじゃん』 「はいはい、おばさまのアイドルアツシ様……」 『あの人、昔うちの学校の生徒で』 「えっ、そうなの?」 『うん。私の兄貴もうちの高校出てるじゃん?一コ上なんだって。でも、学校に内緒で在学中にデビューしちゃって、無理やり自主退学させられたらしいよ』 「たっ、退学!?」 『公立のくせにさ厳しいんだよ、うちの学校って。中途半端に進学校だから気取ってるんじゃない』 「……どうしよう」 梢の顔は青ざめた。梢が動揺していることを悟ったのか、睦美は慰めるように言った。 『でも、まだデビューするって決まったわけじゃないんでしょ?』 「う、うん……まあ、ね……」 と言ったものの、今日の様子を見る限りでは……。 電話を終えたあと、梢は壁に凭れかかって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に眩しかった。 (どーすんのよ、私) 退学なんて冗談ではない。芸能人になってみてもいいかなと思ったのは事実だが、学校と天秤に掛けるなら、迷うことなく学校を取る。 いささか己の考えは甘かったようだ、と梢は思わずにはいられなかった。 「はーあ」 深く息を一つ吐いて、部屋を出た。居間へ行ってみたが、誰もいない。時計に目をやると十時である。まだ十時、この家では宵の口と言ってもいい時間だ。みんな今頃、原稿と顔をつき合わせているのだろう。 梢は縁側に出て音をさせないように雨戸を開けると、床に腰を下ろした。肌に感じる空気は温いが、庭に住む鈴虫の声が幾分暑さを和らげてくれる。 しばらく漆黒の空を見上げていたが、気分はますます重くなり、梢はばたりと仰向けに倒れた。 (今更、やっぱりやめますなんて言えないよぉ) 相模原や神奈川、梅ヶ丘、果ては世田谷トメの顔まで浮かんできて、梢は泣きたくなった。 別に芸能人でなくても良かったのに、と彼女は心中で呟いた。自分はただ、できるだけ早く自立したかっただけで。 この心苦しさは、誰にも分からない。分かってくれるはずもない。だって誰にも言えない。 血が繋がっているわけでもないのに扶養してくれた継生には感謝してもしきれないが、彼の人生を自分が奪ったという負い目が梢にはある。 まだ若く遊びたい盛りだったろう時期を梢のために費やし、おそらくその結果、恋人の顔が頻繁に変わった。何故なら、彼はいつでも誰より梢を優先してくれた。 (息が詰まりそうだ、毎日毎日) 継生のことが好きだから、いつまでもこんな風にいるのは耐えられない。 彼が自分のために失ったものを、梢は返してあげたかった。例え手遅れだとしても。 (ああ〜、それなのに。私のバカ……) 梢は両手で顔を覆った。もしこのまま本当に歌手になって、高校中退などということになったら、こんな恩知らずはいない。 「もうダメだ、ダメだ、ダメだぁ〜」 どうして自分はこう考え無しなんだろう、と梢は自己嫌悪に陥った。 継生に対して感謝し、恩返しをしたいと思いながらも、いつでも口から出るのは皮肉や嫌味ばかり。自分の存在のせいで恋人と上手くいかないのだと分かっているのに、そのことをなじったり、責めたり。 素直になれたらいいと思うが、素直になった自分を想像したらしたで、気持ちが悪いような気がして、やはり素直になれない。 「どーしよーもない」 「なにが、どうしようもないんだ」 「……」 独り言だったのに、と思いながら顔を覆った手を外すと、いつの間に現れたのか、件の継生が怪訝そうな顔をして立っていた。梢は上体を起こして、座りなおした。 「別になんでもない」 「なんでもなさそうには見えなかったけど」 こんなんしちゃってさ、と継生は両手で顔を覆う真似をした。梢は彼から顔を背けた。 「眠かっただけだよ……」 「あ、そう」 おそらく納得はしていないだろうが、そう言うと、継生は居間へと歩いていった。ソファーに座って煙草に火を点けている。梢は縁側に座ったままで、彼の手元を見つめた。 心臓がずきずきと痛むのは何故だろう。 そのままじーっと、継生が煙草を吸うところを眺めていると、 「なんでそんなところで、じっとしてるんだよ!」 呆れたように笑われた。梢は立てた膝を両手で抱え直した。 「なんでって……ここが落ち着くんだもん」 「なんか怖いぞ、おまえ」 確かに薄暗い縁側に座り込んでいる女に黙って見つめられたら、怖いかもしれない。 (別にいいもん、怖くても……) 暗い気持ちのときは、暗いところが落ち着くのだ。これが人間の道理というものだ。と、変な開き直りをして、半ば根競べのような心持で梢はその場に居続けたが、段々と疲れてきた。 悩み続けるのにも体力がいる。 梢は立ち上がると、継生の向かいのソファーに座った。彼は何も言わずに煙草を吹かしている。 「煙草って吸うと、気持ちが楽になるのかなぁ」 梢が呟くと、継生は「吸ってみる?」と箱を差し出してきた。 「じゃあ一本」 と遠慮なく梢は取ろうとしたが、その寸前で箱は引っ込められてしまった。継生は少し慌てているように見えた。 「バカ!本気で吸おうとするんじゃない」 「だって、吸ってみるかって言うから」 「冗談だよ、冗談。女にはこんなもの似合わないの」 「男はよくて、女は駄目なわけね」 「……女は子供を生むからだよ」 そう言って、継生がふと真剣な眼差しをするから、梢もそれ以上食い下がるのはやめた。 「子供かぁ……」 「まあ、梢にとっちゃまだまだ先の話だろうけどな」 「えーそうかな?」 「……」 「私、今すぐにでも子供欲しいのに」 「……相手がいないだろ」 「実はいたりして」 特に深い意味があったわけではなく、単なる口から出任せで言ったことだったのだが、継生はそれを真に受けたのか、「なに!?」と身を乗り出した。その拍子に膝がテーブルにぶつかり、ガタンと大きな音をたてた。 「いで!」 「嘘だってば。本気にしないでよ」 「なんだよ、え!嘘!?」 「いないわよ、相手なんて。知ってるでしょうが」 「そ……そうだよな」 はあっ、と安堵したように彼は背もたれに身を預けた。梢は頬杖をついた。 (継生ちゃんって、本当に心配性なんだから) 妹みたいだから、彼は自分を心配してくれるのだ。そう思えば、何故か寂しかった。そんな繋がりに何の意味があるのだろうと思った。 本当は妹じゃない。いつかは家族じゃなくなる人なのに。 「あーあ……」 梢は自分の暗さに辟易した。随分と前に割り切ったはずのことが、今夜はやけに頭に渦巻く。不安が不安を呼んでいるように。 そんな彼女に気が付いたらしく、継生は微かに眉根を寄せた。 「なんか悩み事でもあるのか」 「別に……」 「もしかして、相模原の野郎に変なことされたとか」 「されてないって!あの人はいい人よ」 「そうかぁ?でもあいつ、すげー……暗そうだぜ」 「暗くても、いいじゃん」 「ああいう奴って、むっつりスケベなんだよな」 「だったらなによ!継生ちゃんって、すぐそういう目で見るよねー」 「そういう目って、どんな目だよ」 「相模原さんは、継生ちゃんが考えてるような人じゃないの。真面目で優しくて、女の人にもでれでれしたりしないストイックな人なんだから」 「なにがストイック……」 継生は馬鹿にしたように鼻で笑うと、ふーっと紫煙を吐き出した。その横顔が急に冷たく遠いものになったように思えて、梢は面白くなかった。 (ふん、大人ぶっちゃってさ!) 実際のところ彼女に比べれば、彼はだいぶ大人だったのだが。 居心地が悪くなった梢はソファーから立ち上がった。嫌味が思わず口をついて出る。 「さっさと仕事に戻った方がいんじゃない」 「なに、いきなりツンケンしてるんだよ」 「してないわよっ!誰がツンケンしてるっつーのよ、なに言ってんの?」 確かにしている。 心を静めようとすればするほど平静は遠ざかっていくようで、居間を出ようとする梢の足は自分の意思とは裏腹にどすどすと荒い音を立てた。 「悩み事があるときは、夜更かしすんなよ」 去り際に投げられた継生の言葉に、ますます子供扱いされているようで、梢はいたたまれない気持ちになった。 ただ他愛のない話ができれば、それで良かったのに。 ――どうして、こうなっちゃうのよ。 暗い廊下を歩きながら、無性に悲しかった。 ← → novel |