お兄さんは苦労する 2
目を開けると、いきなり梢の顔が視界いっぱいに入ってきて、継生は面食らった。 「へ……」 窓から差し込む朝の光を背負った彼女は、ベッドの傍に屈み込んで、継生を覗き込んでいた。 「おはようっ」 「お、はよ……」 まだ上手く呂律の回らない口で挨拶を返しながらも、継生は布団を引き被って、寝返りを打とうとしたが、梢の手がそれを止めた。 彼女は、ベッドに膝立ちで乗り上がってくると、継生の頬をぴたぴたと叩いた。 「寝ないでよ」 「……まだ朝だろ」 「人間、朝になったら起きるものでしょ」 「……」 お前の言ってることは正論だが、とにかく俺は眠いんだ。 そう反論してやりたかったが、はっきりと目覚めていない頭では難しく、瞼を閉じた継生が再び眠りの淵へと落ちかけたとき、ぐいと手を引っ張られた。 「ねえってばー」 梢の力は意外と強く、継生の体は浮き上がった。 身構えていなかったのと、上体を無理やり引き起こされたせいで、継生はよろめき、梢の方へ傾いた。何かを考えている暇もなく、思わず彼女の肩にしがみついた。 華奢な体だ、と思うや否や、継生は全身の肌が波立つような感覚を覚えた。それと同時に一気に意識もはっきりと覚醒したが、重力には逆らえず、そのまま彼女に伸し掛かるようにして、布団に倒れ込んだ。 短くか細い声が耳を掠めた。 顔を埋めた梢の首筋から仄かに花の香がした瞬間、もうこのままどうなってもいい、と思える程の陶酔を覚えた。しかし、 「ちょっと……重い!」 体の下で梢がもがき始めると、理性が甦った。 どうなってもいいわけがない! 彼は慌てて腕を突っ張り、体を起こした。 「わ、悪い」 「もう……びっくりした」 遅れて起き上がった梢は、乱れたスカートの裾を直している。同じように乱れた白いシーツの上で。 非常に危ない光景だ。 継生はその姿から目を逸らした。 「お前が、無理やり起こそうとするから、こういうことになるんだぞ」 「だって、継生ちゃんが起きてくれないから」 「俺、寝たの明け方の四時だぜ」 壁にかかった時計を見ると、七時を回ったところだった。 「まだ、たったの三時間しか寝てないんだ」 「それは悪かったけど。だって、今日はあの日なのよ」 「あの日?」 鸚鵡返しに聞くと、梢は不服そうに口を尖らせた。 「もう忘れちゃったの? 父の日に『一日ちやほやしてあげる券』を進呈するって言ったじゃない」 「ああ……」 ようやく思い出した。そういえば何日か前に、そんなことを言っていた。 反応の鈍い継生に機嫌を損ねたのか、梢は悲しそうな顔をした。 「いらないなら、別に受け取ってもらわなくてもいいんだけど」 「い、いるよ、いるいる。有難く頂戴しますとも」 継生は早口でまくしたてた。 ここまで卑屈になる必要があるのかという思いが心を過ぎったが、梢の顔が明るくなったのだから、それでいい。 「そっ。じゃあ、あげる」 梢はどこから取り出したのか、手品師のようにすらりと、一通の封筒を継生の目の前に突きつけた。 色気も何もない茶封筒だった。 「これはこれは、どうもご丁寧に」 押し頂くようなわざとらしい所作で、継生はそれを受け取った。 手の中のそれを改めて見てみるが、まったくもって何の飾りもない、事務用の茶封筒である。しかも封もされていない。 中には紙切れが一枚入っていて、黒いマジックで「例の券」と無愛想に書かれていた。 ――侘しい。 「プレゼントなんだからさ、もう少し何か……」 そう言いかけると、継生を見る梢の目が、きらりと光った。 何か文句ある? たとえ声に出さなくても、彼女の言いたいことはよく分かる。これぞ以心伝心。あまり喜べないが。 「いや、なんでもない」 内心の動揺を隠して継生が笑いかけると、梢もにっこりと笑顔を作った。 「そ、良かった」 「じゃあ早速、今日使わせてもらおっかなー」 と、継生が言うと、梢は「え?」と聞き返してきた。 「もう使っちゃうの?」 「別にいつ使おうと、俺の自由だろ」 「まあ、それはそうかもしれないけど……」 梢はそわそわと目を泳がせた。どうやら、今日は都合が悪いらしい。休日だから、友達と出かける予定でもあるのかもしれない。 が、継生の心の中に、それなら尚更困らせてやれ、という意地の悪い考えが浮かんだ。 「まだそれほど追い詰められてねーし、やっぱり、今日使わせてもらう」 追い詰められてない、というのは連載の締め切りのことである。 「うーん」 腕組みをした梢は考え込むように顔を下に向けている。 形勢逆転だ。 継生が余裕ぶった笑みを浮かべていると、やがて梢は顔を上げた。 「いいわ。使いたければ、使いなさいよ」 「よし」 こうして、その一日は始まった。 せっかくちやほやしてくれるというのなら、寝ているのは勿体無い。そう考えた継生が顔を洗って、台所を覗くと、何やら難しい顔をした梢がテーブルで頬杖をついていた。 何故か目の前に辞書を開いて、黙り込んでいる。 「……」 「何を、そんなに悩んでいるのかね」 声を掛けると、梢はちらりと継生を見上げて、ため息をついた。 「ちやほやするのって、どういうことかと思って、辞書で調べてみたの」 「……」 今度は継生が黙り込む番だった。コップに水を汲んで、彼は梢の斜向かいに腰を下ろした。 「辞書にはこう書いてあった」 梢は生真面目な顔をしている。 「相手の機嫌をとったり、甘やかしたりするさま……って」 「なるほど」 「つまり、私は継生ちゃんを甘やかせばいいわけかー」 「そ、そういうことなのか?」 継生は困惑した。甘やかされるとは、一体どういう状況なのだろう。 いや、それ以前に何か梢の認識は間違っているような気がする。 「よし、わかった!」 やおら梢は決然とした様子で拳を握った。 「今日は、継生ちゃんを子供として扱う!」 「おい、そりゃちょっと違うんじゃないか?」 継生は焦った。変な勘違いをされては困る。 「え、そう?」 「そうだよ。甘やかすイコール子供扱いするってことじゃねえだろ」 二十九歳の男が、十七歳の少女に子供扱いされるなんて、ぞっとしない。 「じゃあ、どういうことなのよ」 と聞き返す梢はしかつめらしい顔をしているが、本当の所は分かったものではない。内心、舌を出している可能性は高いと、継生は見た。 「そうだな……例えば、俺のやることにケチをつけないとか、俺に何か奉仕するとか」 「奉仕?」 梢は訝しげに目を眇めた。 「つまり、継生ちゃんに対して、何かをイイコトをしてあげればいいわけか」 妙に意味深な言い方をするのはやめてほしい。 「まあ、間違ってはいないけど」 「ふん」 納得したのか、していないのか、小さく鼻を鳴らすと、梢は椅子から立ち上がった。 「それじゃあ、手始めに車でも洗ってあげるとするか」 継生は片眉を上げた。 買ったばかりの新車を梢に任せるのは正直、気が進まなかった。 「いいよ、車は。俺がやるから」 梢は白けたような顔をした。 「私が信用できないんでしょう」 「別に、そういうわけじゃない」 「まあいいわ。私も継生ちゃんの大事なビーエムに傷を付けたくないもんね」 拒まれることを最初から見越していたのか、梢は素直に引き下がった。 「車が駄目なら、部屋、掃除しようか」 彼女はそう言って、廊下へ出て行く。慌てて、継生はその後を追いかけた。部屋の掃除なんて、絶対に駄目だ。見られたら困る物が山ほどある。 梢が部屋の戸を開けようとしたところで、彼はその手を掴んだ。 「待った」 「……嫌なの?」 梢の声は硬かった。 「いや、すごい散らかってるしさ。梢にわざわざ掃除してもらうのは、申し訳ない」 「要するに、やるなってことでしょ」 梢は継生の手を振り払った。その指先から彼女の苛立ちが伝わってくる。 「あーもう、私は一体何をしたらいいの」 「とりあえず、朝飯を作ってくれると嬉しいんだけど」 継生の言葉に、梢は目をぱちくりとさせた。 別に自分で適当に食べてもいいのだが、あんな券まで作っておいて、朝食の用意もしてくれないのかい、と拗ねるような気分になっていた。 「朝ごはんのこと、すっかり忘れてたわ」 「辞書で調べてたから」 と継生が言うと、梢は「あ!」と大きな声を上げた。 「なんだよ、いきなり」 「私、お味噌汁、温めてたんだ」 言い終わる前に、梢は踵を返していた。風のような速さで台所へ入っていく。 「やだ、焦げてる!」 悲鳴を上げた梢の後ろから覗き込むと、黒くなった鍋の底に、味噌汁の名残だろう小さな水溜りができていた。 「あっぶねーな。気をつけろよ」 「はい……」 梢は今にも消え入りそうな声で返事をした。その珍しく殊勝な態度から、彼女が落ち込んでいるのが分かった。 「別に味噌汁くらい無くたって構わないんだから、そんなにしょげるなって」 「でも」 「いいんだよ、朝飯は何でもあるもので」 努めて優しい口調で言ってやると、梢は鍋を見つめたままで、ぽつりと呟いた。 「……実は、ご飯も炊いてなかったの」 「なに!?」 ばり、と胡瓜を齧る音が、二人の間に居座る沈黙を破った。 冷蔵庫には――驚いたことに――すぐに食べられるものが、胡瓜しかなかったのである。 継生は、油断すると出そうになるため息を懸命に堪えていた。 「胡瓜なんて、たくさん食えるもんじゃないな」 手に持った胡瓜を見ながら呟くと、梢は立ち上がり、冷蔵庫から味噌を持ってきた。 「これ付けると、美味しいわよ」 「……どうも」 再び沈黙が訪れ、二人の胡瓜を齧る音だけがその隙間に忍び込む。 胡瓜には栄養素がほとんど無いと聞いたことがある。水分が割合の多数を占めるそうだ。そんな豆知識を口に出してみようかと継生は思ったが、侘しさが増すだけのような気がしたので、やめた。 「昼ご飯はちゃんと作るから、許して」 よほど継生が暗い顔をしていたのか、梢は申し訳なさそうに言った。ちくりと彼の胸が痛んだ。 「許すも許さないも無いだろ」 「だって、継生ちゃん怒ってるもん」 「怒ってねえよ」 「じゃあ、もっと笑ってほしいなあ」 梢はそう言うが、継生は意識して表情を作るということが非常に苦手な人間である。 「そんな簡単に笑えたら、今頃役者にでもなってるわい」 「そう、つんけんしないでよ」 「胡瓜があんまり美味いから、つんけんしちゃう」 つい、皮肉が口をついて出た。己の失言に気付いた継生は慌てて言葉を継いだ。 「それよりさ、梢ちゃん、この後は何してくれるのかなー」 こんな風に機嫌を取っていると、本当に父親にでもなったような気分になってくる。 「別に何も考えてないけど」 ご機嫌取りの効果はなかったようで、梢はぶすっとした顔をしている。 「じゃあ、スポーツ新聞買ってきてくれよ」 「そんなの子供のお使いじゃん」 「今日は俺に奉仕する日だろ」 継生が主張すると、梢はのろのろと立ち上がった。 「わかったわよ。行けばいいんでしょ」 食べかけの胡瓜を口の中に押し込みながら、彼女は玄関へと出て行った。 梢の姿が見えなくなった途端、思わず安堵の息が継生の口から零れた。 どうして、こんなに気を遣わなくてはいけないのだろう。ちやほやされるだけのはずが、やけに疲れる。 とは言っても、梢は梢なりに、自分に対して尽くそうとしてくれていることが分かるので、この気遣いもそう嫌なものではない。 愛が無ければ、出来ないことだが。 (俺って意外と愛情深いタイプなのかもな) へへっ、なんて一人で笑っていると、急にポンと肩を叩かれた。 「はっ!?」 座っていた継生が後ろを仰ぎ見ると、いつの間にやって来たのか、相原が立っていた。 「思い出し笑いなんてしちゃって、いやらしいんだからぁ、もう」 「な、なんでお前がここにいるんだよ!」 まだネームも上がっていない今日は、アシスタントである相原の仕事はないはずだった。 「それは、暇だからです」 臆面もなく言うと、相原は勝手知ったる他人の家とばかりに、居間へと歩いていく。 「そんなんで来るんじゃないよ」 暇を理由に、やって来られても困る。大体、こちらは仕事があるのだ。 「冗談ですよ、冗談。僕、ここに忘れ物をしちゃって、それを取りに来たんです。一応言っておきますけど、黙って入ってきたわけじゃないすよ。玄関でちゃんと梢ちゃんに会いましたからね」 相原はくどくどと述べながら、背を曲げて部屋を見て回っている。やがて、ソファーの下から一冊の本を取り出した。 「こんなところにあったか。図書館から借りてる物だから、無くすと面倒なんですよね」 「見つかったんなら、さっさと帰れよな」 「わーかってますって。誰も梢ちゃんとの甘いひとときを邪魔しようなんて思ってませんから」 「……」 甘いひととき、という相原の言葉で、継生は先ほどベッドで梢を抱きしめたときの感触を思い出した。ぞくりと肌が妖しくざわめく。 「ちょっと、なんですか。その意味有りげな沈黙は」 目ざとい相原が騒ぎ出した。 「っつーか、顔まで赤くなってますよ」 「いや、別に」 「うわ、怪しいな! まさか、梢ちゃんと何かあったんじゃないでしょうね。ひょっとして、ついに一線を越えたとか……」 「そんなわけねえだろ!」 と反論しながらも、継生は「一線を越える」という言い回しの甘美な響きに、頭がくらくらするような気分を覚えた。 簡単に越えられる線なら、こんな風に悩まない。 「そうですよね。さっき会った梢ちゃんの様子も普通だったし」 「当たり前だ」 「あら!」 相原は急に窓に張り付いて、外を見上げた。 「急に空が暗くなってきましたよ」 言われて、継生も窓の外に目を向けてみたが、確かに黒い雲が空を覆っていた。目覚めたときは晴れていたのに。 「雨でも降りそうだな」 継生は梢のことを思った。あいつは傘を持っていっただろうか。 と考えている傍から、果たして雨粒が落ちてきた。庭にできた染みは、かなり大きい。 「これはすごいかも」 相原は呟いたが、その通りに、あれよあれよという間に、雨は激しいものになっていった。遠くから雷鳴まで聞こえた。 篠突く雨のせいで、窓の外は白く煙ったように見える。 相原が振り返った。 「雨が弱くなるまで、いてもいいですよね」 継生は頷いた。いくらなんでも、この大雨の中に追い出すほど、自分は冷たい人間ではない。 しかし、こうなってくると、心配なのは梢である。新聞を買いに行った先は、この家から徒歩数分のコンビニエンスストアだろうから、直に帰ってくるとは思うのだが。通常であれば。 思いを巡らせていると、玄関の戸が開く音が聞こえた。 「あ、梢ちゃんじゃないですか」 「言われなくても分かってる」 お決まりの如く相原をじろりと睨んで、継生が玄関へ出て行くと、梢が三和土に突っ立っていた。 彼女を見た継生は束の間唖然とした。 濡れ鼠とはこういうことだ! と声高に主張するかのように、梢の全身はずぶ濡れになっていた。黒いTシャツは重そうに体に張り付き、ジーンズも裾から上へ向かって濃い色に染まっている。 雫の滴る前髪の向こうから、彼女の綺麗な目が継生を見た。 「……タオルをください」 「おう、待ってろ」 我を取り戻した継生は急いで廊下を引き返し、洗面所からバスタオルを持ってきた。梢に渡すと、彼女はそれに顔を埋めて、「ふえー」とか何とか、安堵したような声を上げた。 継生はそんな彼女をぼんやりと見ていた。 思えば、こんな風に雨に濡れて梢が帰宅することは、昔は何度もあった。タオルで髪を荒っぽく拭いてやると、キャーキャー言ってはしゃいだ。 しかし、もうあんな風にして遊ぶことはできない。 無邪気な時は、過ぎたのである。 タオルから顔を上げた梢は、恨みがましい顔で継生を見上げた。元々色白の肌が一層白くなっていた。 「継生ちゃんのお使いのせいで、酷い目に遭ったわ」 「まさか雨が降るとは思わないだろ。あんなに晴れてて」 「そうだね」 ふと、下を向いた梢の表情が曇った。なんだと思って彼女の視線を追いかけると、上がり框にスポーツ新聞が置いてある。店の袋に入ってはいるが、かなり濡れてしまっていた。 一目見て継生は理解した。これを読むのは相当に大変だということが。 梢は小さく、くしゃみをした。 「……これ読めないかもしれない」 継生は首を横に振り、新聞を拾い上げた。水を吸っているせいで重かった。 「いや、読める」 上手くいけば。 「なんか私って全然役に立ってないみたい。ごめんね、継生ちゃん」 「そんなこと言うなよ」 もう少し気の利いたことは言えないのか、と継生は己に失望した。 「私、着替えてくる」 履いていたサンダルを脱いだ梢は足を拭き、とぼとぼとした足取りで部屋へ行ってしまった。 「なにやら深刻な雰囲気だったですね」 梢がいなくなった途端に、相原が現れた。ずっと盗み聞きしていたのだろう。 「お前には関係ない」 「つまんないなぁ。僕も混ぜてほしい」 「どうやって混ざるつもりだ」 全く椎茸農家の馬鹿息子がよ、と悪態をつきながら、継生は仕事部屋へと歩き出した。相原と無駄話をしている暇はない。 「雨がやんだら、勝手に帰れよ」 「はいはい、そうします」 相原はそう言うと、また居間に戻っていった。 ← → novel |