お兄さんは苦労する 3
ネームを切る作業が一区切りついたところで時計を見ると、まだ正午過ぎなことに、継生は驚いた。 今日はいつになく早く起きたせいで、一日が長く感じる。 窓を見ると、もう雨はやんでいた。地面にできた水溜りが空の電線を映していた。 茶でも淹れようと思い、部屋を出ると、居間の方から梢と相原の話す声がした。 (まだいたのか、あいつは) 継生は自然と苦い顔になった。 「相原、そろそろ帰った方がいいんじゃないのか」 居間に入るなり、そう言った継生の目に飛び込んできたのは、奇妙な格好をした梢の姿だった。 今は六月。初夏といっていい頃なのに、彼女はもこもことした綿入れ半纏を着込んでいた。あれは冬になると登場する物のはずである。 「なんだよ、その格好は」 「だって、寒いんだもん」 梢は、半袖のシャツを着た継生を前にして言った。 だっでざぶいんだぼん。 と、彼には聞こえた。彼女の声は明らかに鼻声だった。 「お前、熱あるんじゃないの?」 「え、そうかな? よく分からないけど……」 首を傾げる梢だったが、目つきがどこかぼんやりしている。 彼女は手を額に当てた。 「別に熱いと思わないけどな」 「自分で触っても分からないんだよ、こういうのは」 と、そこで継生はためらった。前の自分なら間違いなく、梢の額に手を当てていただろう。しかし……今は無理だ。 相原が傍で見ているのも、気になる。 彼は部屋の戸棚から体温計を出してきて、梢に渡した。 「ちゃんと計ってみろ」 「ん」 頼りない返事をすると、梢は、がばと襟元を広げて脇に体温計を差し込んだ。いきなり白い肌が視界に飛び込んできて、継生はぎょっとした。相原もいるのに、無防備過ぎる。熱のせいで頭の螺子が一つ飛んでいるのかもしれない。 やがて終了を知らせる電子音が鳴った。取り出し、梢は体温計を見た。 「……熱がある」 「何度だ」 「三十八度五分」 予想外に高い体温に、継生は驚いた。 「随分とあるじゃないか。今すぐ寝なさい」 「でも、今日はー」 ぐずぐずと渋っている梢を、継生は腕を掴んで立ち上がらせた。 「そんなのいいって」 「……」 梢は黙ったままでいる。きっと、自分自身に落胆しているのだろう。 「あとで薬持って行ってやるから、とにかく寝てろ」 重ねて言うと、彼女はようやく小さく頷いた。 「今日って、何か特別な日なんですか?」 相原は首を傾げている。男は皆、親不孝者ばかりだ。 「別になんでもねーよ」 「でも、さっき梢ちゃんが、今日はどうたらこうたら言ってたじゃないですか」 相原はしつこい。ここは話題を切り替えるに限ると、継生は考えた。 「相原、お前、お使いしない?」 「なんですか、いきなり」 「今、食べるものが何もないんだよな。何か買ってきてくれよ」 「僕を無償でこき使うつもりですか」 「誰もそんなこと言ってねえだろ。昼飯くらいは出してやる」 「ふーん、まあいいか。いいですよ、行ってあげますよ」 相原は意外にあっさりと承諾した。暇だから来た、という彼の言葉は、あながち冗談ではなかったらしい。 「それで、何を買ってくればいいんですか」 「大根、長ネギ、豆腐、牛乳、それと玉子……」 「所帯染みたラインナップだなー」 「うるさい! こんな生活してたら、所帯染みもするわ!」 「はいはーい」 相原を家から追い出すと、継生は薬箱から風邪薬を一服取り出した。濡れたタオルと、コップ一杯の水を盆に載せれば、介抱セットの出来上がりである。 梢の部屋へと向かい、そっと戸を開くと、彼女は大人しくベッドに横たわっていた。しかし眠っていたわけではないようで、継生が部屋へ入ると、ぱちりと瞼を上げた。 「あ……ありがとう」 梢はごそごそと上体を起こして、背凭れに身を預けた。頭痛がするのか、額を手で押さえている。 継生は近くにあった椅子を、ベッドの傍まで引っ張ってきて、腰を下ろした。 「辛いのか」 「辛いね」 継生から水を受け取り、顆粒の薬を飲み下した梢は、顔をしかめた。 「……苦い」 「何か食べられそうか?」 「あんまり食べたくない」 「そう」 「……」 梢はちらりと継生の顔を見たかと思うと、すぐに目を逸らした。思いつめたような表情で、自分の指を見つめている。 「なんか、私、情けなくない?」 「どうしたんだよ、いきなり」 笑って聞き返しても、彼女の顔は暗いままだ。 「だって、朝から何しても上手くいかないから」 「たまたま、今日がツイてなかっただけだろ」 「そうかなぁ」 梢は膝を立てると、そこに顔を埋めた。 「なんか、私が継生ちゃんにしてあげられることって、もしかして何も無いんじゃないかなあと思っちゃう」 「そんなことねえよ」 「でも、私ができることって、継生ちゃんも大抵できるでしょ?」 「お前にしかできないことだって、ある」 「それって、なに?」 「それは、つまりだな……」 継生は言いよどんだ。 何ができる、何ができないという点だけで人間の価値を決めるなど、愚かなことだ。 本当に大切な人は、ただ存在してくれているだけでいい。傍に居てくれれば、なお素晴らしい。 ということを、梢に伝えたいのだが、そのまま言葉にするのは恥ずかし過ぎる。 何か、上手い言い方はないものか。 「例えば、台所で虫を見つけて、ぎゃーぎゃー叫ぶ、とかは梢しかやらないよな。俺は虫は平気だから」 「はあ?」 梢は顔を上げて、継生を見た。 「あとはそうだな……橋本渉のドラマを欠かさず録画する、とか。それもお前しかやらない」 「それって、私は結局下らないことしかできないってこと?」 「いや、そうじゃない!」 継生は慌てて、声を張った。 「むしろ逆だ。要するに、お前がやることは、全て、お前にしかできないことなんだよ」 「意味がよく分からない……」 回りくどい言い方のせいで、梢は悩んでしまったようだ。眉間に皺を寄せている。 己の素直な気持ちを人に伝えるのは難しい、ということを、継生は思い知った。 「だから、何て言ったらいいのかな。とにかく、まあ……梢は健康でさえいてくれたらいいって話だよ」 結局、今までの例えは何だったのか、という結論に着地してしまった。 「なにそれ?」 梢は呆れたような顔をしながらも、笑った。しかし、すぐにむせたように咳き込んだ。 「ほら、もう寝てろよ」 促すと、梢はだるそうに布団の中に潜り込んだ。 「お世話をかけます」 妙に他人行儀な物言いをする。 「また、いつか恩返ししますから」 横になった梢は、ひたと継生を見上げていた。 「期待しないで待っとく」 そう返して、彼は部屋を出た。静かに戸を閉める。 今のは本音だった。 恩返しなんて、欲しいと思わない。そんなものは、いらない。 彼女が傍に居てくれさえすれば、それでいい。 数日前に「お手伝い券」をねだったことも忘れて、継生は廊下の暗がりで苦悩に浸った。 「ふっ……こんなことで悩むなんて、俺らしくねえな」 「あ、また一人で笑ってる」 「ひィ!」 いきなり声を掛けられて、継生は壁に張り付いた。 声の主は、またしても相原だった。ぬぼーっと玄関に突っ立っている。それにしても、いつもいつも、この男には妙なところを見られてしまう。 「な、なんだよ、帰ってくるの早くねえか」 「考えてみれば、僕、お金持ってなかったんですよね」 「あ、そ……」 財布から金を出しながら、この後、相原に昼食を作ってやらなければならないのかと思うと、継生は気が重くなった。 おしまい ← 書き終わって気がつきました、時期が変なことに。 梢が既にデビューしている&継生が自分の気持ちを自覚しているということは……と考えると、これは一体いつの話なんだ……orz だめだこりゃ! パラレル的な挿話と思ってくれれば。(なんのこっちゃ) novel |