TROUBLEMAKER 41 - 42




41 古びた写真と炬燵の蜜柑


 久しぶりに入った八畳の自室は、継生がこの家を出て行ったときから、何も変わっていなかった。
呆れるくらいに、何もかもが当時と同じだった。
 東京の梢の家に自分の荷物をまとめて送るとき、迷ったあげくに諦めた漫画や小説は床に積み上げられたままになり、使わなかった荷造り用のダンボールは、放り投げられたように転がっていた。
 これから荷物の整理をするのには、お誂え向きかもしれなかったが、継生は少し侘しい気持ちになった。
 息子が出て行った後の片付けくらいしてくれないのか、うちの家族は。
 とは言え、今更そんな期待をしても無駄なことは、分かりすぎるほどに分かっていた。
 継生は縁側の方へと歩いていった。
 長い間、締め切られていたせいか、部屋の中は埃っぽい臭いに満ちていた。
 縁側へと続く障子を開けると、冬の冷気が部屋の中へと流れ込んできた。東京よりも澄んでいると感じる。
「結構いい部屋だねぇ」
 のんびりした声が不意に聞こえた。後ろを振り返ると、いつの間に来たのか、梢がきょろきょろと興味深げに部屋の中を見回していた。
 先ほど、家の近所を散歩してくると言っていたが、早々に帰ってきたらしい。
 継生は焦った。見られたら困るものが……あるような気がしたからだ。
 彼は早足で部屋へと戻った。
「何しに来たんだよ」
「見物しに」
 そう言うと、梢はふと壁を見上げた。
 天井近くに、かつて人気のあったグラビアアイドルのポスターが貼ってある。アイドルは豊かなバストを強調するようなビキニを身に着けて、微笑んでいた。
「わあっ! わー!」
 声を出したからといって、ポスターが消えるわけもないのに、継生は一人で騒いでしまった。
「ふーん、そう」
 なにが「そう」なのか。梢は納得したように頷くと、ポスターから目を離した。
 継生は無理やり平静を装って、梢に話しかけた。
「いやらしいとか言うなよ」
「言わないわよ、そんなこと。別に」
 しかし、彼女の顔は笑っていなかった。
 継生も笑えなかった。 
「わかるだろ、若気の至りってやつ。大体、男でグラビアに興味なかったら、かえっておかしい……」
「どうして言い訳するのよ」
 梢は、今度は壁際に置いてある本棚の方へ行った。 
「……もしかして、これ継生ちゃん?」
 棚の中ほどの段に古びたフォトフレームが飾ってあり、彼女はそれを指差していた。継生は目を見張った。その写真のことは長い間忘れていた。
 フレームの中では、小学生の継生と幼馴染の少女が大きな欅の下に並んで立っている。おそらく祖父が撮影してくれたものだ。流れた歳月には勝てず、写真は少し色褪せていた。
「継生ちゃんって、子供のときから不機嫌そうな顔してるんだね」
 梢は可笑しそうに笑った。
 確かに。
「俺、写真に撮られるの嫌いだからな」
 無愛想に口を一文字に結んでいる継生の隣で、少女は楽しげな笑みを浮かべている。
 名前は確か……あき……あきちゃんと呼んでいたから、あきことか、そんなところだったはずだ。
「もしかして、この女の子、継生ちゃんの初恋の人じゃないの?」
「いや、それはない。ただの幼馴染だ」
 継生は迷わず否定した。当時、この少女に対して、そんな感情を抱いた覚えはなかった。
「そういえば、こいつ、病気で学校に行ってなかったんだよな」
 写真を眺めているうちに、段々と記憶がよみがえってきた。
「だから、たまに俺が遊び相手になってたんだ。爺さんに言われて」
「ふーん」
「女と遊ぶのなんて、本当は嫌だったんだけどさ」
「へーえ」
「その頃はあんまり気にしてなかったけど、すごい可愛かったよなぁ。今、綺麗になってるだろうなー」
「なるほどぉ」
「お前、俺の話聞いてる?」
 梢が、いいかげんな返事しかしないので、継生は憮然とした。 
 なぜか梢はじっと写真に見入っていた。
「そんなに子供のころの俺が可愛いか」
 うむ確かにそうだろうと、継生は納得しかけたが、梢は「違う!」と即座に否定した。継生はむっとした。
「……じゃあ、どうしてそんなに凝視してるんだよ」
「この人、お兄さんか弟さんいる?」
 梢は少女を指差している。継生は質問の意味がわからず、首を傾げた。
「確か兄貴がいたと思うけど……なんで」
「さっき、外で会った男の人が似てたのよね。この女の子の顔と」
「外で会ったって、なに?」
「別に。ただ通りすがりに、こんにちはって声を掛けられただけ」
「それ、ナンパじゃねーか」
「違うって。本当に、こんにちはとしか言われなかったもん」
「……」
 そりゃー梢は可愛いから、こんにちはと声を掛けたくなるのも無理はないわな、と継生は思ったが、もちろん口に出したりはしない。
 梢は眉をひそめて考え込んでいる。
「田舎の人って、知り合いじゃなくても挨拶したりするのかなぁ……」
「田舎で悪かったな」
「揚げ足取らないでよ」
「……その男はそんなに、この子に似てるのか?」
 梢は確信があるらしく、深く頷いた。
「うん、似てる」 
「ちょっと挨拶しただけで、そんなに顔って覚えてるものかねぇ?」
「すごい男前だったから、よく覚えてるっ!」
 梢が、やけに力を入れて言い切るので、継生は当然面白くない。 
「……男前? 俺より?」
「継生ちゃんとはタイプが違うから、比べられないなー」
 上手いこと逃げられた。
「この写真の子みたいに優しそうな顔してたもん。継生ちゃんみたいに、生意気そうな顔はしてなかった」
「俺のどこが生意気なんだ? つーか、お前に言われたくない!」
 反論しながら、継生は落ち着かない気分になっていた。梢の話を聞くうちに、段々と自分の中で、ある疑惑が頭をもたげるのを感じていたのである。


 いつの間にか、部屋の中は暗くなっていた。読んでいた漫画から顔を上げると、窓ガラスの向こうで空が赤く焼けているのが見えた。
 継生は大きく伸びをし、そのまま畳の上へと仰向けに寝転んだ。硬い畳の感触が背中に心地よかった。彼は、ぼんやりと天井を見上げた。
 梢が出て行ったあと、継生は部屋の片づけを始めたものの、すぐにお決まりの行動に走ってしまった。しばらくぶりに目にする物に対して夢中になってしまう、アレである。押入れの奥から出てきたアルバムや、本棚の裏に落ちていた漫画など、一度読み出したら、なかなか途中でやめられなくなる。
 この部屋は、そんなもので溢れていた。それらは長い間、継生の帰りを待っていた。
 自分も少しは大人になったのか、父や母を許してみようかという思いが頭を過ぎった。とはいえ、親子だという実感を得ることは、この先もないだろうが。
(こんな家でも、俺にとっては、ただ一つの実家か)
 正直、東京へ出て以来、帰りたいなどと一度も思ったことのなかった家だが、こうして戻ってくると何もかもが懐かしい。今、視線の先にある板張りの天井にさえ、思い出があるような気がしてくる。
 しかし、もうすぐ他人の家になる。そして、二度と入ることはない。
 継生は勢いをつけて起き上がった。感傷とは程ほどに付き合うべきだと分かっていた。
 部屋を出て、彼は居間へと向かった。透かし模様の入ったガラス戸を開けると、中には梢がいた。
 彼女は部屋の中央に置かれた炬燵に横たわり、眠っていた。目を閉じて眠る顔は、あどけない、もしくは無邪気とも言えたが、継生はそんな彼女の寝顔を見ても、幸せな気持ちにはなれなかった。
 継生は梢の傍に静かにひざまずき、上から顔を覗き込んだ。彼女は睫毛一つ動かさないで、沈黙している。まるで人形のように静かだ。本当に眠っているんだろうか?
(辛い……苦しい)
 彼は今更ながら、そう思った。
 一番近くにいても、自分はただ見つめることしかできない。それも、彼女が気付いていないときだけ。こんなのは、あまりに健気すぎる。こんなのは……、
「ばあっ!!」
 突然、梢が起き上がった。おどかすように両手を振り上げて。
 継生は驚き、後ろに手をついた。呆気に取られて目をやる先には、梢の満面の笑みがあった。
「お、お……起きてたのかよ!?」
「あっ、寝てたと思った?」
 騙すことができてご満悦なのか、梢はけらけらと笑っているが、継生としては笑うどころではない。恥ずかしいやら、情けないやら、悲しいやら、色々な感情が頭を駆け巡っていた。
 こちらは秘めたる想いに苦しんでいたのに、相手は自分をからかう算段を練っていたなんて、滑稽だ。
 ひとしきり笑った梢は、不意に真顔に戻って、炬燵の天板に頬杖をついた。
「あーあ、変なの」
「変なのはお前だ」
 むっとして、継生がそう言い返すと、梢は頬を手に預けたまま、大儀そうに彼を横目で見た。大人びた仕草だったが案外と堂に入っていて、継生は少しどきりとした。
 呆れているとも、感心しているともつかない口調で、梢は言った。
「継生ちゃんの足音って、特徴あるもんねぇ。遠慮がないっていうか……寝ててもわかるわ」
「あっそう」
「怒ったの?」
「そういうこと人に対して聞かない方がいいと、俺は思うよ」
「……確かに」
 梢はゆっくりと頷いた。どうも真剣に聞いていないようだった。その目は炬燵の上の蜜柑に向けられていた。瞳を縁取る睫毛が可憐で、継生は呆けたように彼女の顔を見ていたが、すぐに我に返り、自分も蜜柑へと視線を移した。
 二人の間に沈黙の時が流れた。
(おいおいおい、これじゃ少女漫画……)
 継生は段々と顔が熱くなってくるのを感じた。
 言葉もなく、同じ蜜柑を見つめている二人。ただそれだけで、どうしてこんなに胸がドキドキするの……? やだ、心臓の鼓動まで聞こえちゃいそう……!
 まさか自分が恋する乙女役を振られるとは。それなら一方の梢は鈍い先輩と言ったところか。
 継生は面白くなかった。惚れられる方が俺は好きだ、などと言っても、そうそう上手くいくわけがない。
「あら、二人とも、もうここにいたのね」
 ガラス戸が開き、冬子が顔を覗かせた。気詰まりな沈黙が破られ、継生は胸を撫で下ろした。あのまま二人きりでいたら、そのうち逃げ出す羽目になったに違いなかった。
「夕飯はお寿司を取ったわよっ」
 と、冬子は皿に盛られた寿司をテーブルに並べ始めた。
「わーい、お寿司だって」
 梢は身を乗り出して、ネタの種類に何があるかを確認している。  
 呆れるくらいに無邪気である。
 継生は彼女のように寿司を覗き込む気には、とてもなれなかった。


42 布団

 布団の中で、梢は今夜何度目かの寝返りを打った。
 眠れないのである。
 ぱちりと目を開けてみた。部屋の電灯は消えているが、障子を透かして、ほのかな月明かりが差し込んでいるので、全くの暗闇ではない。
 梢は枕もとの携帯電話に手を伸ばした。開くと、ディスプレイの表示は午後十一時。いつも日付を跨いで起きているのが当たり前の梢からしてみれば、まだまだ元気な時間である。
 夕食後、他人の家だからと、遠慮をして早めに床についてみたものの、睡魔は一向に顔を見せる気配がなかった。
 梢は上体を起こして、耳を澄ました。部屋の外からは何の物音もしない。隣の客間に継生がいるはずだが、妙に静かだった。襖一枚で仕切られているだけなのに。
「そういえば、ラジオがあった」
 梢はひとりごちた。先ほど、継生が自室を片付けているときに、古びたラジカセを見かけたことを思い出したのである。
 のろのろと布団から出ると、梢は仕切り襖の前までにじり寄り、手で軽くノックした。
「ちょっと失礼します……」
 小さく呟きながら、細く襖を開けてみる。隙間から、継生が畳に敷かれた布団に腹ばいに寝そべっているのが見えた。電気スタンドを枕元に寄せて、何か本を読んでいる。
 いつになく真剣な眼差しのその横顔を、梢はしばし観察した。そして、ふと気がついた。彼の指に挟まっている物の存在に。
「あーっ、いけないんだ!!」
 梢は襖を開け放った。継生がぎくりと肩を強張らせて、彼女の方を向いた。
「い、いきなり開けるな、バカ」
「やめた方がいんじゃない、それ」 
「……え?」
 訝しげに眉をひそめて、どうやら継生は分かっていないようだ。梢は彼の傍まで行くと、その手から、ひょいと煙草を取り上げて、近くにあった灰皿に押し付けた。
「寝タバコはやめてって、前にも言ったのに!」
「ああ、どうも失礼」
 継生はバツの悪そうな顔をした。
「やめるから、最後に一本吸わせてくんない?」
「ダメ、危ないから」
 梢は継生の手が届かないところまで、灰皿と煙草の箱を遠ざけた。継生は憮然とした表情を浮かべた。
「お前、俺に注意するために、わざわざ起きてきたの?」
「……違うわよ、そういえば」
 梢は腕組みをして、しかつめらしいポーズを取った。当初の目的を忘れるところだった。
「さっき、継生ちゃんの部屋にラジオがあったでしょ? あれを貸してほしいんだー」
 梢がそう頼むと、継生は盛大なため息をついた。
「面倒くせえなぁ」 
「別に継生ちゃんが面倒くさがることないよ。いいって言うなら、私が勝手に取ってくるし」
「いやいや困るよ、それは!」
 継生は慌てた様子でわめいたが、梢はお構いなしに立ち上がり、廊下の方へと向かった。
「大丈夫だって、別に家捜ししたりしないから」
「嘘つけ!こら……ちょっと待て!!」
「待たないよーっ」
 ぎゃあぎゃあ言っている継生の声を聞き流しながら、梢は障子を開けて、薄暗い廊下へ足を一歩踏み出した。
「……」
 梢は庭に面した窓の前で立ち止まった。ガラスの向こうで、何か人影のようなものが動いたように見えた。じっと目を凝らしてみるが、暗くてよくわからない。
「どうした?」
 いつの間にか、継生が隣に立っていた。
「今、外に誰かいたような気がしたの」
「なんだとぉ」 
「気のせいかもしれないけど」
「気のせい……? わからんぞ」
 ぶつぶつと呟きながら、継生は錠を回して、窓を開けた。思わず梢は彼の腕を掴んだ。
「やだ、危ないってば」
「ほっとく方が危ないだろ」
 と珍しく勇ましいことを言って、継生は縁側から庭へと降りようとしている。梢はなおも食い下がった。
「だって、相手が変な人だったらどうするの。もしも刃物とか持ってたら……継生ちゃん、戦える?」
「……お、脅かすなよ」
 さすがに腰が引けたのか、継生は踏み出した足を引っ込めた。庭は静まり返っている。
「確かに、勇気と無謀は違うよな」
「怖気づいたのとも違うのね」
「お前がやめろって言ったんだろうが!」
 とまあ、少々の揉め事もありつつ、結局、その晩は雨戸もきちんと閉めることにした。念を入れて玄関や勝手口の鍵も確認し、おまけに、継生はどこから持ってきたのか、自分の枕元に剣道の竹刀まで置いた。
 梢はその傍に座り、竹刀を手に持ってみた。そこそこ使い込まれているようだが、一体誰が使用していたのだろうか。
「いざっていうときに、こんなの振り回せる?」
「ないよかマシ。気休めだよ、気休め」
 と布団に寝そべりながら、継生はそっけなく言うが、実際に竹刀を持ってきた時点で彼がかなり心配していることが、梢にはよく分かる。
 大体において継生は怖がりなのである。小心というわけではない。長年付き合ってきた梢が思うに、彼は想像力が他者より秀でているせいで、先々のことまで仔細に考えが及んでしまうのだ。それも大抵が悪い方向へ。
「なに考えこんでるんだ」
 気がつくと、継生がふてくされたような顔をして、こちらを見ていた。梢は竹刀を畳に置いた。それと同時に外で風の音が聞こえた。いや、雨が降ってきたのだった。
 梢は息苦しさを覚えた。
 今まで部屋に漂っていた静けさが、やにわに、肩の辺りに圧しかかってきたように感じた。
 今更な話だが、こんな夜中に布団を前にして、若い男女が二人きりでいていいものだろうか。いくら相手が継生だといっても、男の理性は信用できないというではないか。
(やだ、やめなさいよ)
 梢は己の疑心を諌めた。
 なんということを考えているのだろうと、恥ずかしくなる。継生が自分のことをそんな目で見ているわけがない。こんな高校生如きを相手にするはずがない。もうひとつおまけに、そんな考えは思い上がり以外の何物でもない!
(ちょっと待った、思い上がりってなによ。それじゃ私が何か期待してるみたいじゃない)
 梢は急に不愉快になった。
 よくよく考えてみれば、このような心配は非常にばかばかしい。もう何年も、二人きりで一つ屋根の下に暮らしているのだから、布団を前にして恥ずかしがる道理はないはずだ。
 襲おうと思えば、これまでいくらでもチャンスはあったのだから。
 と、またぞろ妙な方向へ思考がシフトしかけて、梢は小さく肩を震わせた。
 今の自分はどうも、おかしい。継生のことが妙に……、
「怖いのか」
「そう、怖い……って、え? なに?」
 梢はびくりと背を揺らした。継生が訝しげな顔で見ている。
「なにって、さっきのことが、まだ怖いのかって言ってるんだよ」
「あ、なんだ、あのことか」
「なんのことだと思ったんだ」
「別になんでもないよ」
 梢は、あははと笑ってはぐらかした。
 我ながら作り笑いが上手くなったものだと思う。
 笑うことができれば、その場だけでも深刻にならないですむ。とにかく今は、そうしてごまかすことが肝要だ――。
「もう寝るから、あっちへ行けよ」
 継生が言った。
 笑顔とは裏腹のあまり可愛くない発想をしていた梢は、そのまま自然に、にっこりと微笑み返した。
 立ち上がり、部屋の隅に追いやられていた灰皿と煙草を手に取ると、継生の舌打ちが聞こえた。
「これはお預かりしておきますんで……」
「吸うなよ」
「……」
「吸うなよ!」
 梢は黙って隣の部屋へ駆け込み、襖を閉めた。
 ラジオのことはすっかり忘れていた。



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