TROUBLEMAKER 1 - 2



 
1 騒がしい朝

 彼女の一日は、香り高いコーヒーと小鳥の澄んださえずりで始まる。
 ……などということはなく。
  
 梢は高校二年生。花も恥らう女子高生とは彼女のことである。今日も今日とて学校があるので、朝六時半に目覚め、洗顔し、長く真っ直ぐな髪に櫛を入れ、昨日の夕飯の残りで弁当を作る。彼女には両親がいないので、身の回りのことは自分でやらなくてはならない。両親でない者ならいるのだが。
 朝のニュースを見ながら、ダイニングのテーブルでバターを塗っただけのトーストをかじっていると、不意に、廊下へ続くガラス戸が音を立てて開いた。
 そこにはけったいな格好をした若い男が立っていた。赤いバンド物Tシャツに、よれよれのジャージを身に着け、ぼさぼさ髪の頭には温泉旅館のタオルを巻き、その上、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけている。
「おはよう」
 と梢に言うと、その男は脱力したように、どっかと椅子に腰を下ろした。彼の名前は継生。梢にとっては、一般的に兄と言われる存在である。
「また、そんな格好して……」
 梢は小さく眉をひそめた。継生の格好があまりにだらしなく、一日の始まりである朝に相応しくなかったからだ。とは言っても、彼の仕事上、これは仕方のないことでもある。
「コーヒー、飲みますか?」
「ああ、頼む」  
 そう頷いた継生は眼鏡を外し、テーブルに置いた。その瞬間、もしこの場に梢以外の女性がいたならば、きっとため息が聞こえてきただろう。意外や意外、彼はその辺ではちょっと見ないほどの白皙の美青年なのだった。だが、梢にとっては何の感慨も湧かない、ただの見慣れた顔である。
「はい、どうぞ」
 梢がカップを置くと、継生は「どうも」というように右手を上げて、それを口につけた。だが、すぐにその表情が険しいものに変わる。
「なんだこれは!?」
「……なにって、コーヒーだけど」
「砂糖が入ってねえ!!」
「え、だって継生ちゃん、ブラックじゃなきゃ駄目でしょ」
「バカ!もうブラックはいいんだよ!!」
 継生は「ああああ〜」と頭を両手で抱えて、テーブルに突っ伏した。いささかオーバーすぎるリアクションだ。梢は呆れた。
「入れて欲しいなら、そう言ってくれないと分からないわ」
「徹夜明けの朝は激甘!って前に言っただろ!?」
 子供のように言い募る継生に、梢は頬に手を当てて空とぼけた。
「そんなの聞いた覚えないなぁ……」
「ちゃんと言ったぞ、オレは」
「そうでしたっけ?」
 適当に相槌を打ちながら、梢は継生のカップに砂糖を入れてやった。確かもう二十九歳にもなるというのに、全く世話の焼ける男である。
「これでいいでしょう?」
「……」
 継生は梢をちらりと見ると、気まずそうに顔を背けた。彼も、こんなことで声を荒げる自分が大人気ないということくらいは分かっているらしい。
「あっ、ここにいた!」
 突然、また別の男が部屋に入ってきた。しかも三人。色白と色黒のかわい子ちゃん二人とモヒカン頭のコワモテが一人。彼らはドタドタと足音も荒くやってきて、継生を取り囲んだ。何だか借金取りのようでもあるが、そうではない。
 継生は憮然として三人をねめつけた。
「なんだよ……もう今週の分は片付いたはずだろ」
 そう言うと、色黒の若者は「すみません!」と勢い良く頭を下げた。
「先生、原稿がまだ残ってました!」
「な……」
 ガクッと、継生の頬杖をついていた手がずれた。驚愕に彼の目が開かれる。
「なんだってぇ」
「ほらっ!」
 今度は色白の彼が妙に楽しげに、二枚の白い紙を継生の目の前に突き出した。紙には薄く鉛筆の線が入っていて、四角いコマの中で、人間らしきものが動いている。
 そう、継生は漫画家だったのです。そして彼を囲む三人は優秀なアシスタント。
「嘘だろ、やめてくれよ」
「残念ながら、嘘ではない」
 と、モヒカン男が言った。見掛けを裏切らない、ドスの効いた渋い声だ。
「さあ、継生さん!神奈川さんは一時に原稿を取りに来ると言っていただろう」
「嫌だ……もうペンなんて持ちたくない!!」
 思いつめたように言ったかと思うと、継生はすっくと立ち上がった。素早く三人の間をすり抜けてどこかへ逃げようとするが、呆気なくモヒカン刈りに腕を捕まえられた。
「そう易々と逃がしはせんぞ!」
「ええい、離せ!おまえらだけでもペン入れはできるだろ!!」
 じたばたと、継生はその手を振り解こうとするが、いかんせんモヒカン男の腕の方が、彼のそれよりもずっと太く逞しい。継生のその情けない姿を見て、梢はため息をついた。
「継生ちゃん、いい加減に観念したら?」
「うるせえ!子供が口出しするな!!」 
「……なによ……」
「いいから、さっさと学校へ行けッ!もうこんな時間だぞ!」 
 継生が指差した先を、梢は見た。テレビ画面はご親切に、「8:10」と表示してくれている。
「わ〜っ、まずい!!」
 梢は顔を引き攣らせた。高校までは、電車を使って二十分かかる。もう遅刻は確実だ。足元に置いてあったカバンを手に取り、梢は玄関に向かって廊下を駆けた。 


2 お兄さんは心配

 廊下の角に消える梢の背中を継生が見送っていると、モヒカン男が……いい加減、アシスタントたちの名前を書いておこう。モヒカン刈りは菊名、色白は相原、色黒は淵野辺という。
 で、その菊名が「ふぅん」と妙に感慨深げなため息をつくので、継生は彼を横目で見た。
「なんだよ」 
「いやあ……梢ちゃんもすっかり女らしくなったと思ってな」
「……あ?どこがだ」
 眉をひそめて不機嫌をあらわにする継生に、菊名は小さく肩を竦めた。
「まあ、継生さんにとっては、いつまでも幼い妹なのかもしれないが……」
「でも本当に梢ちゃん、可愛くなりましたよねー」
 話に割り込んできたかと思うと、相原は、やおら腕組みをして渋い表情を作った。
「高校生にして、既にどこか大人の色香を漂わせている。……って感じでさ!」
「色香だと?」
 相原の芝居めいた言い草に、継生は呆れた。
「あいつのどこに色香なんてもんがあるんだって話だよ」
「ふーん、わっかんないかなぁ〜。継生大先生には」
 相原はニヤニヤと目を細めながら、淵野辺に笑いかけた。
「わかるよねぇ。梢ちゃんのファンのフッチーとしてはさ!」
「えっ!?いや、あの……」
 淵野辺は継生の顔をちらちらと見て、困ったように俯いた。首から耳まですっかり赤くなっている。継生は腕組みをして、淵野辺を睨んだ。
「別にいいんだぜ。梢に惚れてたって」
「絶対いい気してないくせに」
 相原がぼそりと呟く。その一言に、菊名と淵野辺はぎくりと肩を強張らせた。二人が恐る恐る視線をやった先では、継生が神経質そうに眉間に皺を寄せていた。
「てめえ、今なんつった?」
「いい気しないでしょ」
「なにがだ」
「だから、梢ちゃんに男が寄って来ることですよ」
 一向に物怖じする様子もなく、相原は継生に言った。継生といえば、そんな彼を「ふん」と鼻で笑ったが、テーブルの下の足は苛々と貧乏ゆすりをしている。
「あいつにいつ、男が寄ってきたっていうんだよ」
「僕、この前見ちゃったんですよねぇ。この家の前で、梢ちゃんがラブレター渡されてるところ!」
「なんだと!?」
 継生は目を剥いた。そんな話は初耳だったからだ。おまけに、その光景を目撃したのが、何故、たった一人の家族である自分ではなく、相原なんだという理不尽な憤りも感じた。見たとして、どうなるわけでもないのだが。
「相手のヤツ、詰襟の学生服なんて着ちゃってさぁ。しかも、シチュエーションが夕方なの!なんかドラマのワンシーンって感じでしたよ」 
「まさに、青春の一ページというやつだな」
 菊名が真面目な顔で言うと、淵野辺は小さくため息をついた。
「あぁ〜、梢ちゃんってそういう古風なの似合いそうですよね」
「女学生って感じだよね。袴とか似合いそう」
「でも、ちょっと気が強くてアクティブなところもあったりしてな」
「それで、若い軍人と恋に落ちるんだ!」
「どこのはいからさんだ、それは!!」
 盛り上がる三人に、継生は喚き散らした。
「そんな話はどうでもいい!今重要なのは、その後だろうが!!」
「その後って?」
 相原が本当に「きょとん」という顔をするので、継生は決まりが悪くなり、少し顔を赤らめた。
「いや、だから……ラブレターを貰った後だよ」
「ああ!」
 得心がいったとばかりに、相原は手を叩いた。その大げさな仕草が、どうもからかわれているようで、継生は面白くない。が、どうしても今は梢の恋の行方の方が気になるので、話の続きを促した。
「それで、梢はどんな風だったんだ」
「ていうか、先生……そんなこと聞いてどうするんですか?」
「どうするって、そりゃ、その……」 
 継生が言いよどむと、菊名は「愚問だな」と重々しく口を開いた。
「無論、その恋が成就していたら、それをぶち壊すつもりだろう。なあ継生さん」
「誰がそんなことするか!」
「やるやる、絶対。先生は梢ちゃんに対して、そういうことする人ですよ」
「やらねーよ」
 むっとして言い捨てる継生の顔を、相原は大きな目で覗きこんできた。
「なら、言いますけど……梢ちゃんの部屋に、その男とのツーショット写真が飾ってありましたよ」
「うっ、嘘だ!!」
「……」
 すかさず否定の言葉を上げた継生に、アシスタントたちは皆、慈母のような笑みを浮かべた。
「継生さんは、本当に梢ちゃんが大好きなんだな」
「ばっ……」
「シスコンの中のシスコンと呼ばれた男ですもんね」
「誰が!!」
「まあ安心してくださいよ。さっきの写真の話は冗談ですから!」
「おまえらなぁ〜!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る継生を前にして、菊名と相原はどこ吹く風と笑うばかりで、残された淵野辺は「早く仕事終わらせましょうよ〜」と小声で呟いた。






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